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渡邊翔太「自分の限界を超えて」

渡邊コラム

アーリーエントリーで加入をし、今ではチームの可愛い弟分のような存在の渡邊。関西出身ということもあってか、ムードメーカーのように見える彼だが、人一倍プライドが高く責任感の強い一面があることがわかった。


最初の指導者は父親

ご両親とも教師で、父親はバスケット経験者で部活動の顧問もしていたこともあり、幼い頃からボールに触れることが多かった渡邊。本格的にバスケットを始めたのは小学校3年生から。それまではサッカーや水泳、英会話、エレクトーン等、色んな習い事をしていた。
「活発な子供で、エレクトーンは1ケ月で辞めてしまいました(笑)。お姉ちゃんがずっとピアノをやっていたので、その流れで習わされたって感じです。お父さんが中学でバスケットを教えていたので、そこの練習に参加させてもらったり、近所の公園とかでよく教えてもらいました。実は、大学のバスケ部の先輩にもなるんです。サッカーの練習日と被るようになって、どっちかを選ばなきゃいけないってなった時に、親に“バスケの方があっているんじゃないか”って言われてバスケを選びました。多分、お父さんはやらせたかったんじゃないかなと思います。」
その時に所属していたミニバスに、藤永佳昭(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)が1つ上の先輩で在籍していたとか。ちょっと余談だが、母親が勤めていた高校のバスケ部には東京Z初年度に在籍した中村大輔が所属していた話を聞き、不思議な縁を感じてしまった。
5年生の時に初めて県大会へ出場。翌年には藤永の後を継ぎキャプテンに就任し、県大会で初めて1勝を飾ることもできた。
「ミニバスのコーチは、勝つだけではなくてその先もちゃんと成長ほしいということでゾーンディフェンスとかしなくて。全員がドリブルをつけるようにということと、オールコートマンツーマンが中心だったので、今それが活きているのかなと思っています。のびのび楽しくやらせてもらったのも大きいですね。ちゃんと塾にも通ってお勉強もしていましたが、運動会では平井堅のものまねをして応援団をやったり、賑やかな子供でした(笑)。」

渡邊コラム


着実にステップアップ

中学校では3年間バスケ部に所属。1年生の頃から試合に出場していたが、あまり強いチームではなかった。少しでも練習の機会を増やすため、その頃もお父さんと一緒に練習をしていたとか。
2年生の時には、3年生が引退するとキャプテンに就任。ミニバスの経験者は渡邊を含み2人だけだったが、“自分達の代は頑張ろう”と自ら練習メニューを組んでいた。神戸市の新人戦で準優勝を果たし、県大会への新人戦へ。ベスト4を狙いたかったが1回戦で敗退となってしまう。

3年生になると、新しい顧問と外部コーチが就任。チームの雰囲気がガラッと変わることとなる。「ちゃんとしたメニューを組んでもらえるようにもなって、上向きの状態になりました。絶対優勝だなと臨んだ神戸市の大会の決勝で、相手のエースに50点くらいとられて、残り10秒くらいで逆転負けはしたのですが、自分で40点くらいとれて中学校で1番記憶に残る試合になりました。」2位で出場した県大会では、抽選の組み合わせも良く決勝まで進出。準優勝という結果となったが、創部初めて近畿大会への切符を手に入れた。
「まさか近畿大会までいけると思っていなかったので嬉しかったですね。遠征もしたことのないチームだったので、良い経験をさせてもらいました。」

その裏で、2年生の終わり頃には県選抜にも選ばれ、ミニバスの時と同様、藤永の後のキャプテンを任されていたが、悔しい経験もしていた。
「あきさんが1年生の頃から選ばれているのを見ていたので、自分も1年から選ばれたいなと思っていたのですが全然選ばれなくて。自分以外の選手が選ばれているのを見て悔しい思いをしたことを覚えています。その時からより練習をするようになりました。」
そして、当時の選抜のコーチとの出会いが、自身のバスケット人生において最初のターニングポイントになったと振り返る。「それまでの先生とかにもちゃんと教えてもらっていましたが、自分で練習メニューを組んだり1対1の練習が中心になっていたので、しっかり頭を使うという事を教えてもらいました。初めて全国レベルも経験できて、オフェンスもディフェンスも基礎からしっかり学び、必死になって練習をしていました。」


責任感の強い男

高校は推薦で関西学院高等部入学。「高校・大学と、同じキャンパスに7年間通っていました。入学の前に練習へ参加させてもらった時、キャンパスのキレイさに驚きました。敷地内に三田屋っていうお肉屋さんがあって、練習終わりにそこでお昼を食べたのですが、あまりにも美味しくて胃袋を掴まれました(笑)。」

1年生の頃から20~30分はプレータイムはあったが、常に県大会ベスト4止まり。
転機は国体の選手に選ばれたことだった。「国体のコーチがバスケの知識も人としても凄い尊敬できる方でした。高校3年間ずっとメンバーに選んでもらって、キャプテンもやらせてもらったのでよりレベルの高い練習ができていましたね。」

2年生からはスタメンに定着。県内でも目立つ成績を残してきていなかったが、インターハイ出場も果たし、1回戦で秋田県能代工業高校と対戦。「対戦相手だったので、真司のことはその頃から知っていました。前半まで同点だったので、“いけるんじゃないか!”ってテンションが上がっていたのですが、後半ゾーンディフェンスにやられて、30点差で負けてしまいました。全国は甘くなかったです。」

自身として1番濃かったと振り返る3年生。キャプテンを務め、ここでも自ら練習メニューを組んでいた。「顧問が、選手の自主性を重んじる先生だったんですよ。今までちょっと練習量が足りないかなと思っていたので、自分で組んだ練習を皆でやっていました。よくある上下関係の厳しさもなくのびのびとしたチームだったので、県内の他のチームからも甘く見られていたところがったんですよね。それじゃいけないなと思って、厳しくするようになりました。」
ミーディングも開き、『感謝されるチーム・感心されるチーム・感動されるチームになろう』とチームの目標も決めた。
接戦もあったが勝利を収め、インターハイ予選を優勝。ベスト8を目標に臨んだインターハイ。くじ運もよく、“この組み合わせならベスト8にいけるだろう”とチームは意気込んでいた。しかし、1回戦で福島商業高等学校に20点差で負けてしまう。「全国のレベルを甘くみていました。直前の近畿大会でベスト4にも入って、自分自身も国体にも選ばれたりしていて色々知っている気でいたのだと思います。過去の試合を今でもビデオで見たりするのですが、その試合は恥ずかしかったというか、何も残らない試合だったので1回も見ていないです。」周りから応援されるチーム像を描いていただけに、不甲斐ない気持ちしか残らなかった。

実はこの頃、体調不良にも悩まされていた。常にチームのことを考え、全員の練習を見ながら自身も練習をする日々が続き、心も体も休めず疲れがとれない状態となっていた。責任感の強さからくる反動だった。

そんな渡邊に力をかしてくれたのが、外部コーチとしてチームに帯同していた塚本氏だった。
「それまでも相談にのってもらったりしていたのですが、インターハイ終了後から全面的にチームをみてくれるという事になったんです。そのお陰で自分の負担も減りましたし、チームもより良い方向に向かっていきました。ちゃんと戦術も組んで、しっかりとしたチームの形ができた感じですね。」
その甲斐もあり、ウインターカップ予選で優勝。兵庫県内の大会では無敗の成績を果たすことができた。自身初めてのウインターカップ。1回戦は勝利し、迎えた2回戦。3ピリを終えた時点で18点差でリードしていたが、相手のゾーンディフェンスにはまってしまい逆転負けをしてしまう。
「学校もバスをだしてくれて、沢山の生徒やOBの方も応援に来てくれたんですよね。それなのにまさか2回戦で逆転負けをすると思っていなかったので、これまでの中でも1番というくらい悔しかったです。」
悔しい気持ちが大きく残る3年間の締めくくりとなってしまったが、最後の1年間でチームが目標としていた姿になり、後悔なくやりきったと振り返る。

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自己評価の高さと現実のギャップ

そのまま関西学院大学へと進学。1年生の頃は、キャプテンを川嶋勇人(現京都ハンナリーズ)が務め、関学の歴史のなかでも勝負の年と言われるなか、自身も入部当初からスタメンでも試合に出場し、3ポイント王に輝く等の活躍をみせた。
2年生になると監督が交代。主力メンバーも抜け、春のトーナメントでは準優勝を果たしたが、秋のリーグ戦では勝てない時期が続き、インカレへも出場できずに終わってしまった。
「まさかインカレに出れないとは思っていなかったので、これではいけないと3年生の時にはだいぶ意識が変わりましたね。勇人さんが日立に入ったのを見ていたので、この頃からプロ選手になるという事も考え始めていました。」
プロへの道を切り開くためにも、まずはインカレに出場をしてアピールの場を掴むことを考え、必死に練習を繰り返していた。そして、リーグ戦を3位で終えインカレへの切符を手に入れた。
1回戦の対戦相手は、優勝候補である筑波大学。沢山の人が見に来るだろう思い意気込んだが、気持ちとは裏腹に全く良いプレーができないまま敗戦してしまった。「他の関西の同期の選手は凄い活躍していたんですよ。合田怜(現大阪エヴェッサ)とか藤田俊祐(現アイシンAWアレイオンズ安城)とかはユニバの候補にも選ばれたりして、自分も意識はしていたので、凄い悔しかったですね。リーグ戦では調子がよくて自信を持っていたところもあったのですが、メンタルの弱さがでたのだと思います。そこから、少しプレーも落ちてきました。」
4年生ではキャプテンを務め、これまでの主力も残り、関西優勝を目標にしていた。しかし、思う様な成績を残せず、インカレへも出場できないまま引退を迎えることになってしまう。
「今振り返ると自分が下手くそなせいだってわかっているのですが、ずっと何で自分が代表候補に選ばれないんだろうと思っていたんですよ。普通、自分の実力のなさを受け止めて見返してやろうって頑張るものだと思うのですが、周りが悪いと思っていました。そういう考えでやっていたから、全くプレーが良くならなかったんですよね。キャプテンとしてもチームをまとめられている実感がなかったので、それが結果に結びついていたと思います。」

3年生の終わりから4年生は後悔が残っていると振り返る渡邊。
そんな彼が、アーリーエントリーでアースフレンズ東京Zへやってくることとなる。
「2年生の頃から関西選抜には選んでもらっていて。最初の頃はプレータイムが長かったのですが、プレーが落ちていったのであまり試合にでれていなかったんですよね。その時にも、ベンチで“なんで俺を使わないんだ”ってあからさまに態度にだしていたんですけど(笑)。ただ、選抜がきっかけで小野さんに見てもらって、練習に参加させてもらうようになりました。」


プロという立場

後半戦からベンチ入りをしていたが、なかなかプレータイムはもらえなかった。
「最初の頃は大学の終わりの時の気持ちのままだったので、“なんででれないんだろう”と周りのせいに思っていたところがありました。ただ、同じ気持ちでいたらこれまでと変わらないなと気づき、ベンチにいる時でも自分ができることをしっかりやろうと思えるようになりました。」
“試合にでれないのは自分のせい”と謙虚な気持ちを取り戻すと、自然と調子も上がり、少しずつプレータイムも伸びていった。
「最終戦で自分が最後フリースローを落としてしまったのですが、言い方が難しいですけど、今後に活きる経験だったと思います。結果、あの試合が大野さんやたちさん、哲さんの現役最後の試合になって、プロというのは自分以外の人の想いも背負って戦うんだなって感じたんですよね。1試合1試合大事にしないといけないと知る事ができました。」

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自分の限界を超えるため

親元を離れ、初めての一人暮らし。東京に出てきてからの約8か月を振り返ってもらった。
「生まれも育ちもずっと兵庫だったので、最初に東京へ出てきたとは大変でした。オフになって1回実家に帰った時は、ちょっと安心しましたし(笑)。これまで、自分で練習メニューを組ませてもらったり自主性は育ててきてもらったと思うのですが、感覚でやってきた部分もあったので、もう1度1からバスケットの仕組みというか、基礎をしっかり学びたいと思って東京Zを選びました。」

ただバスケットをやるだけではなく、チームのビジョン等、より高いところを目指していることにも魅力を感じたという渡邊。
「自分の限界を超えるためにも東京へでてきたので、ここからが新しいスタートだと思っています。自分のことを誰も知らない所へ来るという事は人間力も試される時だと思っているので、そういう部分でもチャレンジしていかないといけないですね。」

周りには参考にするべき選手が沢山いて、練習もいつも楽しいですと目を輝かせる。「かずさんとか色んなことを教えてくれるし、師門さんのメンタルの強さと言うか、準備を怠らない行動とか、負けずにやり続けるとことか見習わないとなって思っています。」

開幕に向け、B1昇格はもちろん、ルーキーの中で1番の活躍を見せたいと目標を掲げる。普段の人懐っこい笑顔からは想像できない、練習や試合前の準備の姿勢・真剣な表情がとても印象深い渡邊。秘めたる熱い想いが、コートでどんな風に躍動してくれるのか。
秋葉・村越と共に、ルーキー3人の若さ溢れるパワーが、チームへの良い相乗効果になることを期待せずにはいられない。

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