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中川和之「RESTART」

中川コラム

復帰後、ベテラン選手としてコート上でも精神的支柱を担う中川和之。怪我に苦しめられるシーズンとなっているが、これまでの歴史を振り返ると、苦悩と挫折、そしていついかなる時も前だけを見続ける強さが、彼を大きく成長させてきたことを知ることができた。


運命の出会い

山口県下関市に、3人兄弟の末っ子として誕生した中川。ご存知の方も多いと思うが、1つ上のお兄さんとは双子で、兄もまたバスケットボール選手として大学時代まで共に活躍をした中川直之である。

幼い頃からサバイバル生活と言えるほど、やんちゃを越してちょっと危険なほど遊びまわっていた。「家の回りは山や川など自然の多い所で過ごしていました。直や友達と一緒に山に行ったり、川に行ったりして遊んでいましたね。秘密基地を作ったり、陣地争いとかでよくやるような石投げも、当たり所がちょっと悪いと失明していたんじゃないかって思うほど本気の石投げをしていたし、家の屋根から飛び降りて骨折したこともありました(笑)。今振り返ると馬鹿な事していたなって思いますが、当時はエネルギーが溢れていたんでしょうね。」

そんな中川がバスケットボールと出会ったのは小学校3年生の時。兄・直之が命名した『ありんこ班』という、学年1名ずつを1つの班にした掃除グループができたことがきっかけだった。同じグループになった3つ上の長男の友達から誘いを受け、半ば強制的にミニバスへ入部することに。「入ったはいいけど誘ってくれた6年生がめちゃめちゃ怖くて、半年は練習に行かなかったです(笑)。そろそろ行かないと不味いかなと思って、9月頃にようやく初めて参加しました。そうしたらめちゃめちゃ楽しくて、練習が終わる頃には動けなくなるくらいボールを追いかけました。練習後に体育館に大の字に寝転がって見た天井の景色を今でも覚えているくらい、バスケとの最初の出会いは衝撃的でした。」

その時のことを“運命”と振り返る中川。それまで自然の中で遊びまわることしか知らなかった中川にとって、“ボールをついてリングに入れる”というシンプルな動きが面白くて仕方なかった。今まで常に一緒に遊んでいた兄・直之は、初めて練習に行く直前、1人になるのが寂しかったのか「行くなっちゃ!」と喧嘩になるほど中川のことを止めに入ったとか。帰宅後、楽しかったことを直之に自慢すると、「俺もやりたい」と話し、バスケットを独り占めしたかった中川とまた大喧嘩。そんな仲の良い?双子エピソードもあるなか、直之もまた翌日からミニバスへ一緒に通いだしたのだ。

しかし、最初の頃はコートサイドでの基礎練習がメインで、徐々に練習へ足を運ばなくなってしまう。それでもバスケットはいつでもやりたいと思い、シュート練習を屋根瓦に向かって行い、それでも足りず、中川兄弟は田んぼに木を立て、そこに鉄板を釘でくっつけ、リングの代わりに針金を巻き、即席ゴールも作成した。
「想像してもわかる通り、ボールを当てるとすぐに倒れて全くゴールの役割をしなくて(笑)。それを見兼ねてお祖父ちゃんが屋根に手作りのリングを作ってくれました。砂利だった地面にもコンクリートを敷いてくれて。今でも実家にそのまま置いてあるけど、そこが中川兄弟の原点ですね。」

ミニバスのコーチが代わり、ゲーム形式の練習が増えるようになったと噂を聞くと、再び練習へ通うようになった。「チームのなかで、俺はジャイアンのような存在でした(笑)。他の少年団から運動神経の良い奴を引っ張ってきて、ちゃんと試合に出られるように夏休みに強制的に自分の家で合宿をしました。俺が自転車をこいで走り込みをやらせたり、ミスをした時には怒鳴り散らしたりもして(笑)。結果、合宿を終えた後の試合で初めて勝つことができ、そこから県大会で優勝をして中国大会まで出場ができるところまで成長をして、あと1勝で全国というところまでいったのですが、全国の切符をかけた決勝で、相手がハーフコートよりも遠くから投げたボールがたまたま入って、ブザービートで負けてしまって。人生1と言っても過言ではないくらい悔しくて号泣したのですが、俺にやらされて始めた奴らは全く泣いていませんでしたね(笑)。絶対この悔しさを中学で晴らそうと心に決めた瞬間でした。」

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基礎に忠実

地元の下関東部中学校に入学。ここから中川の最初の戦いが始まるのである。
「一言で言えば、凄い鍛えてもらった3年間でした。リチャードギア似の小林先生がとっても厳しい人で。今ではあり得ないけど、夏場でも水が飲めないし、冬場もあかぎれができるほど練習をしました。間違いなく、人生で1番きつい練習でしたね。足がもげるんじゃないかって思いも何回もしましたから。」

今まで楽しくやっていたバスケだが、“やらされている”気持ちが芽生え、自分の意志でやっているのかわからなくなる瞬間も沢山あったとか。“もっと上手くなりたい”その気持ちだけを支えに練習に明け暮れる日々を過ごしていた。
しかし、努力の甲斐もあり、市でも勝ったり負けたりのチームが、3年生の時には全国で2位に輝くところまで成長を遂げるのである。
「とにかく決められたメニューをこなすだけでも大変でしたが、その分、先生の情熱も凄かったです。連続シュート10本決めて終わるっていう時も、最後の選手が夜中の1時過ぎまでかかっても最後までちゃんと付き合ってくれていましたし。その中でも特に俺ら2人に対して、より熱心に指導をしていただいたと感じています。」

毎晩、真っ暗闇の中の帰りの自転車ではフラフラになって田んぼによく落ちたりもしていたとか。最後の全国2位と共に優秀選手賞にも選ばれたことが、努力が報われ、小学校時代の悔しさを晴らすことができた瞬間だったと振り返る。そして、鍛え上げられたプレーの質は、“中学生らしからぬ”と評されるほどだった。「マンツーマンを必死にやっていただけなのに、当時の月バスに“東部中のゾーンが冴えわたる”と書かれて。「お前らにゾーンディフェンスなんか出来るか。」とゾーンなんて1回も教わったことがなかったけど、究極のヘルプとローテーション、ポジショニングを繰り返していたことがゾーンに見えちゃうくらい、全選手が足腰を鍛え上げられて、最後までしっかりやりきれる集団でしたね。」

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恩師に導かれるまま

ここまでの活躍をみせたが、全国の強豪高校から1校も声がかからないことに。小林先生の薦めのまま、兄・直之と共に先生の母校である県内有数の進学校山口県立豊浦高等学校へ一般入試で進学することとなったのだ。しかし、入学にあたってこんな話があったとか。

「入学するときは全く知らなかったのですが、後に専修大学へ入学した時に、チューさん(現専修大学ヘッドコーチ中原雄氏)から“お前ら、なんで高校行くときに能代とか他の全国の強豪のオファーを断ったんだ”って言われて。実は、何校もオファーがあったのに、全部先生が勝手に断っていたんです(笑)。そんな強い所にいっても当時のお前らじゃ潰されるだけと判断して、自分の母校である豊浦高校に行かせたかったみたいで。話を聞いた時はビックリしましたけど、そういう事ができるくらい、俺ら双子のことを責任持って将来まで考えてくれていたんだなと思います。その代わり小林先生、OBの方から3年間手塩にかけて指導してもらいましたからね。結果、高校でもちゃんと成績を残せることができたので、感謝の気持ちしか残っていません。」

豊浦高校バスケ部は、OBも含めバスケットボール部への想いがとても強い学校だった。しかし、その熱い想いとは裏腹に、10年インターハイ出場を逃し、監督の指導も真面目に聞かない選手の集まりだった。「入学時、これまで命がけでやっていたスリーメンを歩いてやっている先輩を見て、“こんなところで上を目指せるのか”って正直思いましたね。でも、入部したからにはちゃんとやろうと思って、直と二人で“俺らはどこからもオファーなかったけぇな。全国レベルにもなると、努力だけではどうにもならんってことが皆わかっとるんやろうね”と理解をして、見返すためにも練習をしていました。」

風貌からはあまり想像ができない、ある意味謙虚。ある意味ネガティブな一面が垣間見えるエピソードだが、ここから中川兄弟フィーバーが始まっていくのである。


目指すべき姿

身体が貧弱で初めは補欠でしたが1年生の頃からベンチ入りをし、夏の予選の大事な場面で二人揃って出場。そこでチームを10年ぶりインターハイ出場へと導く活躍をみせ、一気に中川兄弟の名を県内中心に広げていった。
「インターハイに出たことにより全国から注目をしてもらえるようになって、色んな人が練習に足を運んでくれるようになりました。それまでチーム全体の雰囲気が悪かったですが、自分達から空気を変えることができたなと思います。」

その後の国体メンバーにも選出。チーム強化のためにコーチとして招かれたのが、小野秀二ヘッドコーチだった。「初めて会った日本代表選手が小野さんでした。オーラが半端なかったのを今でも覚えています。中学生の時に先生から“小野秀二っていう、日本人離れした手足の長さがあって、凄い上手いガードの選手がいる”って話を聞いていたこともあったので、その人に会えるっていう衝撃も大きかったですね。一挙手一投足、ずっと見ていました。練習中にドリブルしているボールを全く見ていなくて、ノールックパスとか今では当たり前にやっているプレーだけど、そういうちょっとしたプレーが衝撃でした。今でも鮮明に覚えているのが、ディナイとクローズアウトの練習ですね。足腰が弱くて体も華奢だったから、“もっと足を動かせ”って僕だけはまってしまい凄い怒られたんです(笑)。でも、その時の教えが東京Zにきた今も全く変わらなくて、そのぶれない考えが凄いなと思いますし、当時の事を思い出すこともできて、すごく嬉しかったです。」

少しずつ全国ということを意識しだしていた中川にとって、小野ヘッドコーチは“目指すべきバスケットボール選手”の姿となった。
その後、2年生の時には現役NBA選手のジェイソン・ウィリアムス、ポール・ピアース(現ロサンゼルス クリッパーズ)等が参加をしたNIKE BASKETBALL CAMPにも参加。日本人で唯一ベスト5に選出され、翌年は兄弟揃ってベスト5に選出をされることに。
少しでもレベルを上げるため、CAMPで習ったことを反復して練習をし、時には深夜に起きてハンドリングの練習をしたことも。その努力が花開くことになったのが、高校2年のウインターカップだった。
「家庭の事情もあって大学へ行くなら直と一緒に行けたらと思っていたのですが、僕だけとか、どちらか1人とか、そういう話が多かったんですよね。180cmもないガリガリの俺らなんかを2人とも取りたいっていう大学はもちろんなくて。俺らみたいな下手っぴが関東のチームへ行っても試合に出られるわけないしなって考えていた時に声をかけてくれたのが専修大学だったんです。」

本当は違う選手を見る目的でウインターカップの会場へ足を運んでいた新関光一氏(現専修大学総括)と中原氏だったが、目的の試合前に行われた日大山形vs豊浦高校のウォーミングアップをみて、「この2人を採ろう」と、中川兄弟の獲得を即決したとか。
「ちっちゃい猿みたいな俺らのハンドリングとかを見て、試合を見る前に決めていただいたみたいです(笑)。大会後、学校まで来てくれて色んな説明をしてくれたのですが、所属している選手の経歴とかを聞いて、“俺らなんか通用するわけないやん”って思ったのを覚えています。最後に質問はないかと聞かれた時、レベルの高さに僕はビビッてしまったのですが、税理士を目指していた直が聞いた質問が“大学内に勉強できる図書館はありますか?”って、バスケと関係なかったという(笑)。それくらい自信がなかったです。それまで全く誰からも評価をされていないと思っていた田舎者でしたから。面談後、“かずだけでも3年くらいからベンチに入れるよう頑張ろうか”って話をしていました。」

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バスケットボール人生の転機

初めて山口県外に出ての生活。厳しいながらも自由にバスケットをしていた中川にとって、“これがバスケットか”と、バスケの本質を知る事ができた4年間となることに。

入学当初まず行ったのが、体を大きくするために食事を意識的に多く摂る事。高校生の頃からコンプレックスに感じていた周りの選手との体格の違いを解消すべく、太ることを決意。1年時の夏合宿中、食堂に残りひたすら食べ続け、70kgだった体重を1週間で80kgにまで大きくすることに成功。プレーのレベルについていくことも大変だったが、徐々に体は慣れていった。

転機となったのが、ポイントガードを初めて経験したことだった。
「高校までは点取り屋ってイメージの方が強かったと思います。3年時のインターハイで1試合最高個人得点(43点)もとりましたし、練習試合であれば60点くらいとっていました。そのスタンスで大学も行ったけど、なぜか監督から生まれて初めてポイントガードで使ってもらうようになりました。」

それまでガードっぽいガードをやってこなかった中川にとって、最初は戸惑いの連続だった。
「最初の頃の試合のビデオとかみると、スタンドの先輩からの野次や文句がめっちゃはいっていましたね(笑)。調子に乗っていたというのもあって、すぐにシュートを打ちにいったりしていたから、“なんでお前が打つんだよ!”“パスしろコラ!”とか。それが凄いショックで。寮生活でも、言葉遣いもわからない田舎者だったので、自分では全力で敬語を使っていると思っても怒られてばかりだったから話すのも怖くなって。1年の時は半年くらい、先輩と返事以外一言も話さないようにしていました。」

OBも含め、周りからは“なんで中川をポイントガードで使うんだ”と非難ばかり続いたが、将来性があるからと、当時大学バスケ界で名を馳せていた2学年上の青木康平氏を1年間ベンチに置いても、試合で使われ続けていた。

2年生になるとシューティングガードにコンバートされ、青木康平と共に2ガードとして活躍。創部57年目にして、初めてインカレ優勝を果たすことに。同学年の波多野和也、1学年下の大宮宏正(共に現琉球ゴールデンキングス)等と、専修大学の黄金期を作ることとなったのだ。 「大学2年で初めて夢にまで見た日本一になって、完全に天狗になり始めていました。その後、体も大きくなってきて、プレーやハンドルとか自分がイメージしていたものに近づいてきたので、3年生くらいから本気で練習をしなくなっていました。4年の頃には正直もう大学には誰も相手がいないなって調子にのっていましたね(笑)。最低な先輩です。」

他の大学にはもちろん上手い選手もいたが、自分も同じくらいのレベルまで成長したと気づいた中川が次に目を向けたのが世界だった。


生き残るために

その考えに辿り着くのに大きい影響を与えたのが、中原氏だった。当時からNBAの解説も務めていた中原氏は、練習でも常に「アメリカの○○のプレーを見ろ」等声をかけていたとか。最初は「何をこの人は言っているんだろう?」とよく理解できなかったが、渡されたビデオを見ながら練習に励むように。2年生のインカレが終わった後には、青木康平と共に声をかけられ渡米。トライアウトを受ける機会も得ていた。
「優勝した後だったせいもあって、調子こいてトライアウトを受けたのですが、なんと開始5分で大捻挫をして、そこで試合終了。何もできず大恥をかいただけだったので、帰国してからも誰にも何も話さなかったです。その悔しさもあったから、またその後も挑戦できたのだと思います。」

4年生になり、周りは次のチームが決まる中、中川へオファーをするチームはなかなか現れなかった。「調子に乗っていたし、本当の意味でポイントガードのプレーもできたわけじゃないから、上では通用しないと思われていたんだと思います。多分、最初のチームからオファーがあったのは、同期の誰よりも遅い時期だったと思います。それがメルコドルフィンズ(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)でした。」

他のチームからはどこからも声がかからずこのまま決めようかと思っていた時、再び渡米の機会を得ることに。
当時、海外挑戦中だった田臥勇太が、アメリカ・独立プロリーグABAでデニス・ロッドマン等と優勝を果たし、所属チームロングビーチ ジャムのオーナーから中原氏の元へ「第二の日本人を探している」とオファーが。ガードの次はフォワードが良いということから、大宮が指名されトライアウトを受けることに。しかし、中原氏が「もう1人面白い奴がいるので連れて行っていいですか」と交渉をし、同行できることになったのが中川だった。
「“卒業旅行に行ける!ラッキー”って感じでしたが、前回の悔しさも晴らしたいって気持ちもかなりあったので、すぐに行くことを決めました。」


史上初!在学中のプロ選手誕生

秋のリーグ戦が終了しインカレが始まる前の期間、大宮の後をついていく形ではあったが、「次は絶対に後悔だけはしないよう、思いっきりプレーをする」と心に決め、2度目の渡米。すると、自分でも驚くほどの調子の良さでキャリアハイのプレーで結果を残し、練習参加3日目の終了後、当時ヘッドコーチを務めていたNBAで史上唯一、得点王とアシスト王の二冠達成をしたネイト・アーチボルト氏自ら、中川へ1枚の紙を渡したのだ。
「当時英語とか全く話せなかったので、最初何なのかよくわからなかったんですけど、渡された紙を見て、わかる英語だけ拾ったら契約書かなって思って。現地の人に見てもらったらやっぱり契約書で、皆で凄い盛り上がったのを覚えています。」

突然夢が叶ってしまい、現実なのかわからないまま一旦帰国をすることに。機内では、読めない英語だらけの契約書を、日本に着くまで10時間以上ずっと見つめるほど放心状態だったという。

帰国後、メルコドルフィンズからのオファーを丁寧に断り、インカレが終了すると共に再び渡米。次は、ハングリーでスラムなバスケ人生がスタートすることになるのだ。

意気揚々と乗り込んだが、甘い感じで手をだしたものの代償は大きかったと振り返る。
「正直プロのことを甘くみていました。小さい頃から色んな場面で鍛え上げられたおかげもあって何とかやっていけましたが、普通の日本人なら完全に精神的にやられていたと思います。それくらい、プロとしての生き死にの狭間の厳しさを初めて突きつけられて、苦悩する毎日でした。」

トライアウトの時は外国人選手を相手にも戦えたが、当然、実際に試合で戦う相手は、トライアウト以上のメンバーが揃っている。最初は試合に出ていたが、プレータイムも徐々に短くなっていくことに。途中、フェニックス サンズで日本人初のNBAプレーヤーとなった田臥がサンズを解雇され、ロングビーチ・ジャムと再契約をし、同じチームでプレーをする機会もあった。
「田臥さんはプレーはもちろんポイントガードとしての仕事は天才的に上手くて、英語も話せるからコミュニケーションもちゃんと取れるのをみて、俺は何をしに来たんだろうって思いましたね。」

プレータイムも失い、そこから何の努力もせず文句を言う事が多くなるにつれ、周りからの信頼も無くし、チームからも解雇され中川の元には何もなくなっていった。
「もうダメだと思って帰国することを決めたのですが、自分のなかで“真のポイントガードになれれば、またアメリカのコートに戻れる”と確信があったので、今回西海岸でダメだったから、次は東に行こうと決めていました。」
帰国後、改めて自分を見つめ直し、昔のように謙虚に練習に励むようになる。そして、初めて“バスケでご飯を食べられるようになるには”ということを考え、とってもシンプルな発想で行動をした。次のトライアウトを受けるまでの間ユニバーシアード日本代表にも選出されると、その勢いのままニューヨークに降り立ち、ABAハーレム ストロングドッグスと契約を結べることに。同地区の強豪チームとの対戦時に毎回20得点以上を挙げる活躍をみせ、日本人で初めてABAのオールスターに選出されるまでになった。
「ポイントガードとして成功をしている選手のビデオを数百回みて研究しましたね。必死でやらないと生きていけない環境でしたから。アメリカ人より決して上手くなったわけじゃないけど、イメージを持って1年間やったら結果がちゃんとついてきたので自信にも繋がりました。」

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母への想い

海外挑戦中、チームが決まらない期間は日本でプレーをすることも。アーリー制度を使い、bjリーグ・高松ファイブアローズ(現香川ファイブアローズ)へシーズン途中ながら入団。しかし、国内初めてのプロデビュー戦の直前。最愛のお母さんが他界してしまう。

「大学4年のインカレの前にはもう癌だったらしいのですが、俺が海外に挑戦するっていう時期でもあったから、心配させないように家族で俺だけそのことを聞かされていなかったんです。数ヶ月くらい経ってから母ちゃんから直接話は聞きましたが、癌が死に近い病気という実感がなくて聞き流していたんですよね。母ちゃんが、どんな時でも“かずがやりたいようにやりなさい”って1番に応援をしてくれていたから、プロになって日本で初めてプレーを見せられると思っていた矢先、試合の2日前くらいに亡くなったと連絡がありました。その時は大号泣でした。小さい頃から悪さをして学校に呼び出されたり、体の細さで悩んでいた時期、決して裕福な家庭ではなかったので、腹一杯色んなものを食べられるわけではなかったから、“こんな飯ばっかやから、俺の体がでかくならんのや”ってテーブルをひっくり返した事もありました。何も恩返しができなかったことは、今でも死ぬほど後悔しています。」

母への気持ちを胸に、シーズン最後まで高松で過ごし、ファイナルまで進出をすると準優勝に導く活躍をみせた。


後悔のない時間を

そこから数年は、アメリカと日本を行き来することを繰り返す。高山師門も昨夏受けたNBA D-Leagueのトライアウトは、毎年最後のメンバーまで残り、アイダホ スタンピードと契約ができそうな場面までいったが、語学力不足を理由に不合格となった年もあった。
「プレーで評価されるまでになったのに語学力を理由に落とされた時は、自分の人生を呪っても仕方ないけど、相当ショックでしたね。もし今海外でプレーをしたいと思う学生がいたら、高校・大学とかなるべく早くに挑戦をしてほしい。俺みたいになってほしくないですから。」

数々のアメリカでの経験のなかで、独立リーグUSBLのブルックリン キングスでのプレーが1番の成功体験と振り返る。「言うまでもなく、ニューヨークのブルックリンなのでアジア人は俺だけで、初めは相手にもされず練習場所すら教えてもらえない練習生からのスタートでした。食事もまともにとれないなか、毎日一人公園で練習をしていましたね。そこから何度もがっついてようやく練習に入れてもらえるようになり、試合に出られるようになりました。ホーム初戦で20点をあげて、最終的にはスタメンになって決勝までいけたことは自分にとって1番の成功体験です。決勝の対戦相手はすべてNBA D-League所属の選手だったので、ハイレベルな環境の中で結果を残せて自信にもなりました。あの時学んだハングリー精神が自分のアメリカ挑戦の全てと言っても過言ではないです。」

最後の海外挑戦と決めたのが27歳の時だった。NBA選手になることを目指していたのに、下部リーグでばかりプレーをしても仕方ないと思い、最後の挑戦となったのもNBA D-Leagueトライアウトだった。既に再び三菱電機からもオファーがあり入団することを決めていたが、皮肉にもそんな時に限りNBA D-Leagueコミッショナーから直々に合格の連絡が届いたのだ。「合格をして選手登録をされれば、確実にどこかのチームでプレーはできたと思います。けど、Dリーグを目指していたわけではないし、実は三菱からのオファーもその時で3回目だったので、それだけ俺のことを必要としてくれるならその気持ちに応えたいと思って、日本へ戻る決心をしました。」

相手の気持ちを重んじる中川らしい決断。決して成功したと言える海外挑戦ではなかったかもしれないが、プレーヤーとして、そして1人の人間としても大きく成長を遂げた中川は、日本への正式な復帰を決めたのである。

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プレースタイルの違いからの苦悩

ここまで海外でプレーを続けていたが、三菱電機に入った当初は全く通用しなかった。
「bjリーグのプレーはアメリカのマイナーリーグに近かったので、ナインティ・フォーティ・フィフティって言って、フリースロー90%、3ポイント40%、2ポイント50%を達成するほど活躍できたのですが、当時のJBLはどのチームも緻密なシステムで成り立っているから、アジャストすることができなかったです。バスケットをちゃんと学んでいなかった代償は大きく、全く通用した手応えはなかったですね。」
また新たな悩みが出来た時に出会ったのが、当時アシスタントコーチを務めていたアントニオ・ラング(現ユタ ジャスのアシスタントコーチ)だった。4年間同じチームで活動をし、公私に渡って誰よりも怒られ続けたが、彼からバスケットの大事な要素を叩き込まれたという。

「今まで個人スキルや対人感覚に頼っていたところに、ティーチングという知識が加わって、それが経験として蓄積され成功体験になって、徐々にポイントガードとしての必要なスキルが伸びていきましたね。頭を使ってプレーをすることを痛みと共に教えてもらいました。アメリカでは結果を残せればやっていけたから、唯一それが足りなかったんだと思います。」

コーチからの信頼を勝ち得るため、言われたことは全てやり遂げ、チームの望むプレーを正確に遂行するよう毎日必死だった。そして、チームから1番必要とされるタイミングが来た時に自らスパッと辞め、NBLへ新規参入をしたつくばロボッツ(現茨城ロボッツ)へ移籍することを決めたのだ。

茨城では、現在もチームメイトの中村友也と共に3年間を過ごすことに。引っ越した家の裏に偶然にも筑波大学があり、入団してから間もなく、10年ぶりの大学生生活をスタートさせた。
「三菱電機時代は毎年ルーキーのようにしか扱われてこなかったけど、年齢が30歳を超えていたこともあり、ロボッツでは初めてキャプテンも務めさせてもらいました。自分の中でもう1歩成長ができた時間だったと思います。一時チームが無くなりかけた時はリーグの理事会にも参加させてもらって、経営の難しさも目の当たりにしました。その中で大学院にも進学し学業も両立させ、ロボッツでの3年間を一文字で表すとしたら“学”ですね。どんな時でも応援をしてくれたファンの皆さんへは感謝の気持ちしかないです。」


新たな挑戦

そして、Bリーグ元年を東京Zで迎えることになるのだが、実は、NBLラストシーズンで引退をしようと考えていた時期もあったとか。
「自分のなかでやり切ったと思ったのですが、何度断っても1度会いたいと熱心に連絡をくれた東京の人がいて。それが山野代表でした(笑)。」

最初は本当に移籍をする気はなく断るつもりでいたが、代表山野の熱い想いと、幼き頃に憧れた小野ヘッドコーチからの一声もあり、入団することを決意したのだ。
「16歳の時、小野さんからディナイで怒られたことを鮮明に思い出しましたね(笑)。全く認めてもらえなかったと思っていた小野さんからも声をかけてもらって、少年の頃の気持ちに戻りました。代表の熱い想いもあって、期待に応えたいと思い移籍を決めました。」

しかし、そんな気持ちとは裏腹に、開幕前に離脱。“なんで今?”という想いが駆け巡り、初めての手術も経験し、やるせない時間を過ごしていた。 「チームに対して申し訳ない気持ちでいっぱいでした。これまでのキャリアを振り返ると、実力不足、プレーがよくても語学力が足りない、環境が厳しいとか、何か1つ欠けていることの繰り返しだったのが、東京Zへの加入時は、実力や自信もつき、環境も良いと全部揃って初めてシーズンに臨める状態だったので、悔しい気持ちでいっぱいでした。」

病院のベッドの上で華々しく開幕をしたBリーグを迎え、時間だけがある中、悟りに入る気持ちでいたとか。同時に、母校専修大学の偉大な先輩である元広島東洋カープの黒田博樹氏や青木康平氏が引退というニュースが。「これだけ偉大な人でも引退したら関心が薄らいでしまうんだと思ったら、俺みたいなちっぽけな奴が今のまま引退したら世に何も残らないなと思って。初めて真剣に現役の終わりっていうことを考えた時、もっと皆に知ってもらいたいなって欲が出てきて、もし復帰できたらコート外の活動ももっと積極的にやろうと決心しました。」

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その考えからスタートしたのが、現在積極的に発信をしているTwitterやInstagram、LINE、メルマガ等を駆使した活動に繋がっていくのである。そして、後半戦からついに復帰を果たし、チームは今1番ベストな状態まで辿りつつある。

「不思議な事に今、また欲が出てきています。新しいファンの方もできて、SNSを通して深く関わる事もできるようになって、ここで引退するのは寂しいなと思っています。体も正直もう無理かもと思ったりもしましたが、昨シーズン我慢してプレーしていた時期に比べると構造も良い状態になって、変化はゆっくりですがまたプレーがちゃんとできるようになってきています。選手として今まで自分が本当にやりたかったことができるラストチャンスなんじゃないかって思っています。もちろん簡単ではないけど、1シーズンでもいいから全部納得がいくシーズンを過ごしたいですね。」

最後冗談っぽく、「バスケ界のKINGカズを目指そうかな」と話していた中川。
彼と同じチームで活動をしてまだ1年も満たないが、1つとっても印象に残っている姿がある。それは、まだリハビリに励んでいる頃。リハビリ施設にたまたまハーフコートが併設されており、トレーニング後、いつもそこでボールをついていたのだが、コートに出てボールを持った瞬間、それまで険しかった顔が少し和らいだように見えた。愚問だと思いつつも、「バスケしたいですか?」と聞いた時、「凄くしたいよね。」と、34歳のベテラン選手が少年のような笑顔で返事をしてくれた。その目はきっと、初めてボールを追いかけ、疲れ果てた末に体育館の天井を見上げた9歳の時と同じだったに違いない。

遅れてスタートをしたBリーガー・中川和之。彼の挑戦は、まだ始まったばかり。

 

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