MENU

EARTHFRIENDS
TOKYO Z

MENU

COLUMN

HOME>COLUMN>BIOGRAPHY>佐々木隼「これが隼の生きる道」

佐々木隼「これが隼の生きる道」

 

column9.jpg

どんな時でも自分のリズムを崩さず、あまり闘志を表に出すタイプではない佐々木。
しかし、彼のバスケ人生をたどると、バスケに対するあくなき向上心と、自分の役割を的確に分析するクレバーさが見えてきた。


習い事は週7日

幼稚園の頃から、佐々木は毎日のように習い事に通っていた。野球、サッカー、空手、水泳、学習塾、などなど。それらは自分からやりたいと言い出したものではなく、両親から半ば強制されて始めたものだった。「毎日何か習いに行ってました。オフなしです(笑)空手の時なんて『上達したら”かめはめ波”が打てるようになるぞ』って言われて、当時はそれを本気にしちゃって始めたんですが・・・まんまとダマされました(笑)」。当然サボることなど許されず、佐々木が友達と遊ぶ時間は、毎日学校から家に帰る時間だけだった。ただ、そんな生活を送っていただけあって、体は大きく何でもできる万能少年に育っていった。


流れで始めたバスケ

小学校にはミニバスチームはなく、佐々木がバスケを始めたのは小学6年生のクラブ活動からだった。バスケを選んだ理由は、「これまで一緒にサッカーをやっていた仲の良い友達がバスケを選んだから」という主体性のないものだったが、クラブ活動を通して次第にバスケの楽しさを知っていく。

ある日、クラブ活動で近隣の小学校と対抗戦が行われた。その日、野球の習い事が入っていた佐々木は両親から猛反対を受けながらも、何とかバスケの試合に行くことを許可してもらう。そして、参加した試合で佐々木は大活躍を見せる。既に身長は170cmを超え、高い身体能力を有していた佐々木はダンクシュートを連発。他を圧倒する活躍でチームを優勝に導いた。

column9-1.jpg


辞めるための勝利

ますますバスケの魅力にはまっていった佐々木は、中学ではバスケ部に入ることを決意。しかし、ここでも親の猛反対を受けることとなる。お互いに譲らず話が平行線に進む中、佐々木にバスケをやるための条件が出された。それは、『現在やっている習い事全てで優秀な成績を収めること』というものだった。野球では4番・ピッチャーを任されるなど、団体種目では既にチームNo.1のポジションにいた。個人競技でも、空手の流派の大会で優勝、水泳でも平泳ぎで都大会優勝を果たすなど、見事に結果を残してみせた。
佐々木は当時の気持ちを、「優勝したことが嬉しいじゃなくて、『やっとこれで辞められる』っていう喜びでいっぱいでした(笑)」と語る。


目指すべき目標との出会い

そして、晴れてバスケ部への入部を認められた佐々木。中学のバスケ部は区大会1回戦負けが定位置のチームだった。
にもかかわらず、強豪の中学から顧問の監督が赴任したばかりで、練習は厳しかった。ある日、顧問の監督が以前いた中学校と合同合宿をすることになった。監督から「向こうのチームに東京No.1の1年生がいるぞ」と言われた。その選手とは、現在のチームメイトである大野恭介のことだった。実際、大野のプレーは群を抜いていた。「とても同学年とは思えなかったです。今まで野球でも空手でも”できる”ほうだったので、恭介を見た時には『こんなに上がいるのか』っていう気持ちになりました。」という佐々木は、この日から大野を目指すべき目標として見定め、より上手くなりたいとう気持ちを強めていく。

佐々木は中学のJr.オールスター(東京都選抜)に、1年目から候補選手として選ばれたが、この年は最終メンバーには残れなかった。一方の大野は、1年生ながらメンバー入りを果たす。それからは佐々木はさらに練習に励むようになった。中学のバスケ部では大黒柱として得点やリバウンドを荒稼ぎし、1試合で60点を取る時もあった。センターとしてゴール付近で敵なしの力を身につけた佐々木は、2年生の時にはJr.オールスターの最終メンバーに選ばれ、大野とともにスターティングメンバーに名を連ねた。「ポジションが違うから比べられる話ではないですけど、1年生のときは雲の上にいた大野と、ついに同じ舞台に並び立ってやったぞ、っていう気持ちで嬉しかったですね。」

column9-2.jpg


自分を変えた「最高の環境」

都内でも有数な選手へと成長した佐々木には、都内の強豪校からいくつも誘いが来た。しかし佐々木は、どこの高校がいいという考えはなく、大野と一緒にプレーがしたいと思っていた。そんな時、大野から佐々木に連絡があった。「俺、菅生(すがお)行くんだけど、一緒に来ないか?」この一言で佐々木の進路は決まった。どこにあるかも知らなかった東海大菅生高校への進学を決めたのだった。

あきる野市にある東海大菅生高校は、佐々木の住む練馬からは遠かった。そこで、高校ではバスケ部のコーチである近藤先生の家に下宿させてもらうことにした。この下宿生活が、佐々木をバスケ選手として、人としてさらに加速的に成長させることになった。朝は近藤先生と一緒に学校へ行き、ほぼマンツーマンでシュート練習をした。佐々木は中学まではシュートが入る選手ではなかったが、近藤先生の指導によりミドルシュートを自身の最大の武器と呼べるまでに磨き上げた。

下宿先では先生の奥さんが作ってくれた料理が出され、嫌いな野菜も残すわけにいかず食べ続けた。中学までは肉ばかりの食生活で「下宿を始めて最初の1年は、日々の食事は苦痛でした」という佐々木も、1年が経つと何でも食べられるようになり、栄養面でも多大なサポートを受けた。さらに、近藤先生はバスケ技術だけでなく、人としての心構えを佐々木に説いた。「『”カッコつける”ことが格好いいんじゃない。何か目標に向かって一生懸命になるのが格好いいんだ。』という先生の言葉は今も残っていますね。昔からサポーター付けたりして目立とうとしてたんで(笑)」


息の合ったコンビプレーで全国へ

当時の菅生高校は長身の選手が少なく、佐々木は1年時から試合に出ていたが、上級生になるにつれてチームの得点源へと成長していった。さらに、現在のチームメイトであり後輩の高山師門と2人でインサイドをやるようになってからは、絶妙なコンビプレーを発揮して得点を量産した。「師門とは何も言わなくてもお互いにやりたいことが分かっている感じでした。基本的には師門が頑張って、困ったら俺がやるっていう感じでしたけどね(笑)」。阿吽の呼吸を発揮する2人の活躍と、中学時代とは変わってチームのバランサー役に回った大野の活躍を中心にチームは勝ち上がり、佐々木が3年の時にチームは初めて全国大会出場を果たし、ウインターカップでは全国ベスト8まで勝ち進んだ。

column9-3.jpg


より高い次元での戦い方を求めて

3年生のインターハイ後、佐々木は付属高校の対抗戦を見に東海大学へ来ていた。そこで、東海大バスケ部の陸川章監督と偶然出会い、声をかけられた。そこでの陸川監督の情熱に感化され、東海大学へ進学することにした。

大学バスケについて良く知らなかった佐々木は、東海大学のバスケ部に入って衝撃を受けた「高校時代に全国大会で活躍してた選手があちこちにいてビックリでした。『こんなメンバーの中で自分がやるのか』って。練習も、高校より楽なんだろうっていう勝手な想像があったんですけど、とんでもなかったです(笑)」大学界でも一、二を争う練習の質と量をこなすチームの中で、佐々木のプレーは通用しなかった。しかし、悲観的な気持ちは持っていなかった。佐々木は冷静に、客観的に、『どうやったら試合に出られるだろう?どうやったらこの相手から点が取れるだろう?』と考えるようになっていた。

システマチックなオフェンスにも最初は混乱したが、持ち前の要領の良さで順応していくと、1年生のうちから徐々に試合に出られるようになっていった。大学の試合で佐々木が武器としたのは、リバウンドだった。読みの鋭さと跳躍力、そして”何が何でもボールを取る”という負けん気でボールに飛びつき、結果を残していった。「頑張る大切さは近藤先生から教わった大事なもの。(陸川)監督も一生懸命なプレーは好きなので、そこでアピールするしかない、って気持ちでした。」という佐々木は、3年時には6マンとして多くのプレータイムを得るようになる。


最終学年に襲われたアクシデント

4年生になり、最上級生として集大成を飾るべく燃えていた。しかし春の関東トーナメントを目前に控えたある日、朝起きたら足首がパンパンに腫れ上がり、激痛を伴って立ち上がることもできなかった。すぐさま病院へ行き診断を受けたところ、間接の酷使による骨の変形症だということが分かった。手術をすれば痛みは取れるが、シーズン終了までプレーすることはできなくなってしまう。佐々木が選んだ選択は、手術を避けて痛みと戦いながらプレーを続けるというものだった。痛み止めの処置をして、テーピングをしながらプレーを続けた佐々木だったが、参加できる練習も限られ、結局最後のシーズンでは試合に出ることができないまま、引退を迎えることになった。

column9-4.jpg


捨てきれなかった「上を目指す」事への思い

最終学年で試合に出られなかった佐々木に、声をかけるトップリーグのチームはなかった。
大学バスケ引退後に手術をして、再びプレーできるようになった佐々木は、監督の紹介で実業団チームの葵企業に加入。実業団のチームには大学時代に第一線で活躍していた選手も多く、決して低いレベルのリーグではなかった。しかし、練習は週に2日、生活のメインは仕事という環境に、佐々木は「自分はこのままで終わっていくのか?」という思いを持ち始める。ちょうどその頃、高校時代のチームメイトである大野がアースフレンズというクラブチームでプレーし始めたことを知り、チームの目指すビジョンに興味を持ち始める。翌年、高山も加入し、その年にアースフレンズのNBDL参戦が決定。佐々木はこれ以上、自分の気持ちに噓をつくことができなかった。

佐々木は会社員としての安定した生活を捨て、プロの世界に挑戦。そしてアースフレンズ東京Zの一員として、チームに加わることとなった。
「チームに入ったらスタッフ陣は凄いし、拓馬さんも入って来るしで、驚きの連続でした。自分がこうなりたいと思って自分の進む道を決めたのは、今回が初めてと言えるかも。でも、自分の選んだ選択は間違いじゃなかったって今は思っています。プロとしては1年目なので、ルーキーらしくプレーして、色々学んで成長していきたいです。バスケではまだてっぺんを取ってないので、このチームメイトと日本一を取りたいです。」

流れるままに進むべき道を選んできた佐々木が、退路を断って臨むプロの世界。
逆境にも飲まれないマイペースさと状況を的確に読む鋭さで、チームにアクセントをもたらす。

column9-5.jpg