MENU

EARTHFRIENDS
TOKYO Z

MENU

COLUMN

HOME>COLUMN>BIOGRAPHY>八幡圭祐「”世界”を知る父の教え」

八幡圭祐「”世界”を知る父の教え」

 

column11.jpg

彼の生い立ちを話す上で、まずは彼の父の紹介をしなければならない。1つ年上の兄は、同じくプロバスケ選手として活躍する八幡幸助(現bjリーグ埼玉ブロンコス)。プロバスケ選手としての人生を歩むようになるまでには、家族の大きな支えと、世界を知る父の教えがあった。


世界を知る父

八幡圭祐の父、八幡博之氏はテニスの元国際審判員。高校時代には野球部のキャプテンとして甲子園のマウンドに立ち、大学でアメリカに渡ってテニスに出会うと、そこから日本一のテニスプレーヤーにまで登り詰める。現役引退後は日本人初の国際審判員として、セイコー・スーパーテニスやグランドスラム、プロツアーで審判を務めるなど、世界を舞台に活躍した。非常に”熱い”性格(圭祐談)で、”熱いテニスプレーヤー”として有名な松岡修造氏も彼の教え子の一人。2人の関係を知る人からは、「修造の熱さは博之氏譲り」と言われているという。幼い頃の八幡は、国際審判の仕事で世界を飛び回る父に連れられて、世界中を飛び回っていた。「父の仕事で海外に行く時は、飛行機はいつもファーストクラスの座席でした。当時はその価値なんて全然分かってなかったですが(笑)」

column11-1.jpg


球拾いしなくていいから

父だけでなく母もテニスの経験者で、当然のように八幡も幼い頃からテニスコートでラケットを握らされていたが、「球拾いが大嫌いだった」こともあり、進んでテニスをやるようにはならなかった。幼い時から運動神経の良かった兄と対照的に、運動は苦手で、スポーツ自体あまり好きではなかった。そんな中、兄がバスケを始めたために、一緒に体育館に連れられるようになり、兄と一緒にバスケを始めることになった。テニスに比べて「球拾いしなくていい」ことからバスケを好きになり、だんだんとのめり込んでいった。


3つのチームを掛け持ち

「やるならプロを目指せ」という父の教えのもと、3つのミニバスチームを掛け持ちしていた八幡兄弟。全国大会に出るようなチームではなかったが、『熱い父とバスケ熱心な八幡兄弟』として、八幡の住んでいた地域では知られる存在だった。午前中に試合をして、午後から別のチームへ行って試合をするといったことも度々あったという。当時から「遠くからシュートを打って決めることを嬉しいと感じていた」という八幡は、アウトサイドシュートの練習を行っていた。

column11-2.jpg


家族とともに”一流”のもとへ

近くの中学にはバスケ部がなく、一つ隣の中学へ進学。しかし、その中学のバスケ部も全国を目指すようなバスケ部ではない、いわゆる”普通のバスケ部”だった。そんな折、父から兄弟にある提案がされた。「お前たちが本気でバスケをやりたいなら、本気になってバスケがやれるところに行こう」。息子たちが本気でバスケをするというなら、その環境へ引っ越そうという提案だった。
父の提案に対し、八幡と兄は”本気でバスケをする”ことを約束。八幡は新潟の本丸中学校へと転校した。本丸中学の監督は、いま日本で最もNBAに近い選手と言われる富樫勇樹の父、富樫英樹氏。前任の中学でも全国大会準優勝を獲得し、本丸中学を毎年のように全国レベルに導いていた名将である(現在は開志国際高校バスケ部監督)。日本一を目指すチームは練習以前の部分から前の学校とは全く違っていた。「礼儀や規律など、同じ中学のバスケとは思えない世界でした。部員たちの意識も違う。来て良かったと思いました。」という八幡は、試合ではシックスマン(控え)のシューターとして活躍。中学3年時には全中に出場し、準々決勝で比江島慎(現アイシンシーホース三河所属)を擁する百道中学に敗れるも、全国ベスト8入りを果たした。


さらに上を目指して海外へ

中学を引退した八幡に、またも父からの提案が訪れる。「アメリカに行って本気でバスケをやりたいか?」。英語が覚えられる、そして日本にいるより成長できると感じた八幡は、兄とともに留学を決意。留学先を探す中で、アメリカではなくニュージーランドでバスケットボールに打ち込める高校を見つけ、母・兄とともにニュージーランドへ移り住むこととなる。

1日5時間の授業のうち、3時間はバスケの授業が行われ、バスケのセオリーを学ぶ授業や、体育館での練習などが行われる。バスケットボール選手となるための生活スタイルだ。「自分が一番成長できたのはここでの生活でした」という八幡はバスケの考え方やシュート力に磨きをかけていった。

column11-3.jpg


バスケで生活することの意味

仕事のため一人日本に残っていた八幡の父も、留学の費用を軽減させるためにニュージーランドへ移住。再び訪れた家族揃っての生活だったが、それは八幡にとって必ずしも良いものではなかった。試合に負けて帰ってきた日には、プレーの一つ一つや試合中の態度などに反省を求められた。多感な時期にあって、バスケ中心の生活をさせてもらっている感謝はもちろん感じていながらも、バスケ経験のない父からあれこれと言われることに苛立ちを感じていた。そしてある日、その想いが溢れ、つい「もうやってられるか!」と父に言葉をぶつけてしまった。すると、父はゴミ袋に八幡のシューズやウェアを片っ端から投げ入れていった。そして八幡にこう言った。「そんな覚悟でやっているなら今すぐバスケを辞めて日本に帰れ。プロの選手はどんな試合をした後でもマイクを向けられるんだ。ファンはチケットを買って観に来てくれるんだ。いつもそのことに感謝する気持ちを忘れるな。」その時のことを八幡は振り返ってこう語る。「あの時はホントに家に帰るのが嫌でした(笑)でも今は、あの時の生活があったから今の自分がいると素直に思えるので、感謝の気持ちだけですね。」
技術・体力に加え、心の面でも大きく成長した八幡は、チームでもスコアラーとして活躍。最終学年時には地域の記録となる1試合65得点の記録を残すなどシーズン平均47点をあげ、ニュージーランドの学生選抜メンバーにも選ばれた。


祖父の死をきっかけに日本へ

高校卒業後、ニュージーランドのプロチームからも誘いを受け、チームに加入。しかし、日本国籍の八幡は外国籍選手扱い。チームに1人だけの外国人登録選手の枠をアメリカ人選手らと争わねばならず、初年度は練習生としての契約で、試合には出られなかった。兄は別のチームで外国籍選手として試合に出ており、羨ましく思うとともに、ニュージーランドの国籍を取得して選手契約を勝ち取る道を考えていた。
そんな折、日本にいる祖父が亡くなった。父と母は残された祖母のために帰国。八幡はこのままニュージーランドに残る道も考えていたが、祖父の死をきっかけに、いつも応援してくれている祖母に自分のプレーを見てもらいたいと思うようになり、日本へ帰ることを決めた。

column11-4.jpg


海外との文化の違い

帰国した八幡は、栃木のプロチームのトライアウトを受け合格。日本でプロ選手としての生活をスタートさせる。しかし、ここで八幡は今までやってきたニュージーランドでのバスケと日本のバスケ文化の違いに直面する。「向こうでは、プレーについての意見や主張をコーチにするのは当たり前で、自分の考えを主張できないとプレータイムがもらえない。でも、日本では全く逆で、自分の意見や考えを言うことを受け入れてもらえず、自分勝手な選手と捉えられてしまっていました。」コーチとの関係性が持てなかった八幡は、試合でもプレータイムを得ることができなかった。翌年には浜松に移籍するも、やはり同じような境遇に置かれてしまう。

やがて、こんな状況が続くのであれば、再びニュージーランドでプレーする道を模索したほうがいいと考えるようになる。そんな八幡に、父は「ニュージーランドでプレーするのは構わないが、今お前がやろうとしていることはただの『逃げ』だ。国やチームが変わればやり方は変わって当然。まずは、どうすれば日本でプレーできるのかを探すべきじゃないのか。」と厳しく諭した。その言葉に、「もう少し日本でチャレンジを続けてみよう」と決めた八幡が出会ったのが、アースフレンズ東京Zだった。


小野ヘッドコーチとの関係

気になるコーチとのコミュニケーションについては、「小野さんのやろうとするスタイルや戦術は全般的に納得できるものなので、そもそも自分の主張をしようと思うことがほとんどないです(笑)疑問に思った部分や、こうしたほうがいいんじゃないかということを話したりもしますが、ちゃんと話を聞いてくれて、それに対する答えをもらえるので、良い関係が築けていると思いますし、勉強になっています。」

シーズンも中盤だが、八幡の活躍する出番は今のところ決して多いとは言えない。それについて八幡は「起用してもらっている場面でシュートを決められていないんで、仕方がないですね。小野さんは平等に見てくれていると信頼しているので、僕自身が試合に出た時に結果を残せるかの問題だと思っています。」

八幡は自身の将来についてこう語る。「世界を相手に戦いたいという気持ちは常に持っています。そのために、今このチームでできることをやって、アースフレンズ東京Zでまずは日本一になりたい。」
海外で磨いた八幡のシュート力が、試合で発揮される日は近い。

column11-5.jpg