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山田哲也「“プロバスケ選手”としての苦悩と葛藤」

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3年の引退期間を経て、今期再びプロの世界に戻って来た山田。
老練なプレーでチームを支えるビッグマンの、バスケットボールに対する思いとは。


子供の頃は『覚えていない』

東京都八王子市生まれ。意外にも父親の身長は170cm、母親は150cmと決して背は高くない、むしろ小柄な両親だ。「6つ上の兄と5つ上の姉も背は高くないです。自分だけがこんなに伸びました。おばあちゃんが背が高かったらしいんで、隔世遺伝なんですかね。」

子供の頃の自分について聞いたところ、記者泣かせの返事が返って来た。「子供の頃のことは全然覚えてないんですよ。中学生くらいまでは記憶があんまりないというか・・・」なので、ここから先の話は、もしかしたら事実では無いかもしれないことを、予め断っておく。

小学校時代から身長が高く、クラスでは常に一番後ろ。特別運動が好きと言うこともなく、性格は「人見知り・・・だったと思います。」水泳を習っていたが、果たして自分から希望して通い始めたのか、両親に促されてのものか・・・「嫌々やってたわけじゃないとは思います。あと英会話とか塾とかにも行ってた気がするんですけど、これは親に行かされてたんだと思います。頭悪かったんで。」


背が高い「普通」の部活プレーヤー

中学校に進学し、バスケ部に入部。きっかけは、仲の良かった友達がバスケ部に入ったから。チームは取り立てて強豪というわけではなく、山田曰く「八王子市でベスト4くらい。都大会に出ても1回戦で負けるレベル。」とのこと。当時の自身については「よくいる部活中学生だったと思います。部活やって、終わった後は地域の体育館開放に行って練習してという感じ。チームで1番点は取ってたと思うけど、どんなプレーしてたかはホントに全然覚えてないんですよね。記憶に残ってるのは、自分のゴールに自殺点したことと、コンタクトレンズを忘れて、自分のシュートが入ったのかどうかも分からない状態で試合した日があったことくらい。」

そんな山田だが、中学3年で190cmに達する長身もあって、東京都のJr.オールスター中学選抜にも選出された。

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マイペースに進んでいたら、一躍全国レベルの選手へ

中学を卒業後、いくつかの高校から誘いが来ていた中で山田が進学先に選んだのは、地元の八王子高校。その理由も「近いから」という安易なものだった。だが、高校時代の経験が山田を全国区のプレーヤーに押し上げていった。3年生が引退してからは、山田は主力として試合に出場。監督は厳しい指導者だったが、本人の性格を考えてか、山田には自由にプレーをさせていた。そんな環境の中で、山田はチームの中心選手として育っていき、2年時には八王子高校初のインターハイ出場を果たす。

都大会やインターハイでの活躍が目に留まり、2年の冬には全日本ジュニアの合宿に呼ばれる。厳しい全日本での練習はもちろんのこと、1つ下の田臥勇太(現リンク栃木ブレックス)をはじめ、全国トップクラスの選手たちとの練習が、山田に強烈な刺激を与えた。「高校のチームでは天狗になってましたけど、周りは全国ベスト4とか日本一を争うチームの選手たちばかりで、自分なんて全然て感じでした。その後、必死になって練習をして・・・みたいなのは全くなかったんですけど、そういうレベルを体感できたことは、自分にとって貴重な経験だったと思います。」

高校3年時のインターハイ予選決勝リーグでは、3試合の平均で40得点以上をあげる活躍で、2年連続でチームをインターハイに導いた。


スター軍団の中でも頭角を現す

全国クラスの選手へと成長した山田に、関東の多くの強豪大学が声をかけた。そんな中で山田が選んだのは、青山学院大学だった。「青学は一番最初に声をかけてくれたんです。あと、青学は寮がなかったから。寮生活したくなかったんで(笑)」当時の青学は黄金期を迎えており、現在も現役でプレーする青野文彦(現レバンガ北海道)を始め、卒業生の多くがトップリーグでプレーするほど逸材が揃っていた。

実際青学は、山田が在籍していた4年間で、関東トーナメント優勝3回、関東リーグ優勝2回、インカレ(全国大会)優勝1回と多くのタイトルを獲得。「インカレ優勝時にはガード、フォワード、センターの各ポジションで全く戦力の落ちない控え選手がいて、その全員が大学トップレベル。練習もキツかったし、これだけやってるんだから負けるはずがない、っていう感じでした。」

山田もこのスター軍団の中で主力として活躍。大学4年時の関東トーナメントでは最優秀選手賞を受賞している。

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ケガとの戦いの始まり

マイペースながら全国トップレベルの選手としての道を邁進してきた山田だったが、そのバスケ人生に影を落とす事象は既に起きていた。「大学3年のインカレの後、かなりひどい捻挫をしちゃったんです。それまではほとんどケガ知らずだったんですが、それを境にケガがちになってしまったんです。」


チームに残り続けるために

大学で4年間を過ごした後、山田はJBLの現日立サンロッカーズ東京に入団。だが、大学時にケガをした足首だけでなく、膝やすねの骨にも故障を抱え、本来のパフォーマンスが出来る状態にはなかった。それでも故障を抱えたまま練習に参加し続けた。「脛骨が疲労骨折して、歩くのも辛い状態で練習に参加してたこともありました。本当はしっかり休んで、手術をしたり回復に努めたほうが良かったのかもしれないです。だけど、ずっと休んでいたらチームからカット(解雇)される可能性もあったので、やり続けました。」

自身の故障に加え、当時のトップリーグではインサイド(ゴール付近のポジション)は外国人の助っ人選手の持ち場。山田は試合にこそ出てはいたものの、大学までのようにチームの主力としての活躍を見せることはできなかった。「このころには、主力選手として活躍することは諦めていたと思います。優勝はしたかったので、チームの勝利のためにできることはやっていましたが。」

日立で9シーズン目の3月、東日本大震災が発生し、リーグはシーズン途中で終了。このシーズン終了後、日立は山田との契約を更新しなかった。

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引退を決意

山田は、自分を必要としてくれるチームを探した。違うバスケを体験してみたい気持ちからbjリーグのトライアウトにも参加し、ドラフト指名も受けた。

そんな中で選んだのは、当時JBL2の現豊田通商ファイティングイーグルス名古屋だった。愛知で引っ越し先の部屋を決めた山田は、その日のチーム練習に参加。正式にチームに合流して初めての練習で、山田はアキレス腱断裂の大けがを負う。救急病院で応急処置として足を固定され、翌日の新幹線で東京にとんぼ返り。そのまま神奈川の病院で入院することとなった。「あ、これでバスケ人生終わりだな、と思いました。正直もうバスケに対してのモチベーションもあまりなかったですし。」

退院して、日常生活が出来るようになった後は、ケガをする以前から声をかけてくれていた岐阜県の体育協会職員として勤務を始める。学校の部活動を指導したり、体育イベントのスタッフ業務などの仕事をはじめた。同時に岐阜県の国体選手として、2012年に地元で開催される国体を、選手生活の最後と見定めてプレーをした。国体後もクラブチームなどでプレーは続けていたものの、トップ選手としては引退に等しい状態だった。


再起への葛藤

そんな2014年の夏、山田に一本の電話がかかった。電話の主は小野秀二ヘッドコーチ。日立時代に、コーチと選手として共にプレーをしていた間柄だったが、普段電話がかかってくることはなかったので、もしやという思いで電話に出た。予想通り、電話の内容は「もう一度、選手としてやってみる気はないか」というものだった。

山田はこの誘いに、すぐに気持ちを固めたわけではなかった。トップレベルの選手としての生活を離れて数年が経ち、コンディションもさらに落ちている中で、小野HCが求めるプレーができるのか。それに現在指導しているチーム、今の仕事を中途半端に放り出していいものか。

葛藤の末、山田が選んだ選択は、再び『バスケットボール選手』としてプレーすることだった。「小野さんが声を掛けてくれて、必要としてもらえている嬉しさが決め手でした。」

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そして山田はアースフレンズ東京Zの選手として10月に合流。チームではインサイドの控えとして出場し、派手なプレーではないものの、老練なディフェンスと仲間のチャンスを作るサポート的な動きで、チームのここまでの躍進を支えている。

しかし、今の自身の状態について、山田からは思いもよらない言葉が返って来た。「今はバスケをプレーしていて”楽しい”という気持ちよりも、はがゆさしかない。練習でも試合でも、自分のイメージしている通りに体は動いてくれなくて、極端に言ってしまうと、みんなの前で恥をさらしているような感覚です。自分でも『何でまだやってるんだろう』って思う時もあるただそれでも続けているのは、『その年でも頑張ってる姿を見て元気をもらってるよ』って声をかけてもらったり、応援してくれているファンの方がいるからだと思いますね。」

山田の今のバスケットボールにおいて、『夢』や『希望』といった言葉はない。
そこにあるのは、バスケットボールを”仕事”として遂行することの大変さや辛さ。これは社会に出ている人であれば、誰しもが背負い、向き合っていることだろう。
華やかなプロ選手という舞台にいながら、自分を飾らず、淡々と自分の役割を遂行していく山田の姿には、妙な親近感と居心地の良さが感じられてくる。

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