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藤永佳昭「さらなる高みへ」

 

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昨シーズン途中、アーリーエントリーで加入をした藤永。
合流と共に試合に出場し、主力さながらの活躍でファンを一気に魅了した。


英才教育を受けていた幼少時代

兵庫県神戸市生まれ。高校教師でバスケットボール部のコーチを務める父親のもとで育った藤永だが、決してバスケ一筋の家庭ではなかったという。「両親も、お姉ちゃんも妹も、皆高校は同じ市内の有名進学校を卒業していて、僕だけちょっと路線が変わっちゃったんです(笑)」

幼い頃からスポーツ全般何でも好きで、生後半年頃からは既にスイミングスクールに通っていた。小学校へ入学すると、水泳以外にピアノ・空手・習字・公文などなど。卒業するまでほぼ全ての習い事を続け、英才教育を受けていた。

一番時間を費やしていたのは、水泳。兵庫の県大会では優勝経験をもち、コーチの薦めもあって1年生から将来のオリンピック有望選手が集まる選手育成コースへ通うほど、成績がとてもよかった。
しかし、練習はタイムを計りながら黙々と泳ぐだけ。ゴールのない練習がずっと続き、自分との孤独の戦いで、何度も泣きながら泳いでいたこともあるという。「水泳はただただ嫌いでした。早く泳げるからやっていただけというか。6年生の時に仲の良い友達4人で県の少年団の水泳大会に出場して、メドレーリレーで銀メダルを獲ったのが一番の良い思い出ですけど、練習は嫌で熱もでるくらいでした。」と苦笑い。


初めてのキャプテン

その反動からか、バスケットは楽しくて仕方がなかった。3歳頃から父親がコーチをする高校の体育館に連れていかれ、自然とボールに触れる機会はあったが、本格的に習い始めたのは小学校1年生だった。4年生の姉がミニバスを始め、姉の練習についていき体育館の端っこでシュートを打っていると、ほぼ全てのシュートが決まった。「小さい頃からずっと高校生のリングの高さでシュートを打っていたから、ミニバスのゴールが低く感じて。だからシュートが届いていたのだと思います。」

それを見たコーチが、「君もうできるね。1年生だけど入部していいよ。」と、本来4年生からしか入れないミニバスへ、特別枠で入部。試合にも出場していた。6年生では、自身初めてのキャプテンに就任。神戸市大会で2位となり、チーム初めての県大会出場を果たす。その活躍が評価され、兵庫県選抜にも選ばれた。

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バスケットを極めたい

中学校に進学すると、バスケ1本に絞る。
「水泳の方が成績は良かったけど、楽しかったバスケだけをやりたかった。」
そう語る藤永は、1年生から兵庫県のJr.オールスターに選ばれた。予選リーグでは、宇都直輝・張本天傑(どちらも現トヨタ自動車アルバルク東京)を擁する愛知県に得失点差で勝利するが、決勝トーナメント初戦敗退でベスト16に終わる。翌年も選出されキャプテンを務めるが、やはりベスト16止まり。「初めて全国というものを経験して、上手い奴はいっぱいいると思い知らされました。」この頃から、藤永のなかに『もっと上手くなりたい』という気持ちが芽生えてきた。


親元を離れて

3年生の夏。部活動の全日程を終えると、藤永はバスケ部を引退。すぐに、福井県の中学校へと転校する。高校進学にあたり、早い段階で(福井県の)北陸高校へ進学したいと気持ちを固めていたからだ。
北陸高校といえば、卒業生に佐古賢一(現広島ドラゴンフライズHC)や五十嵐圭・石崎巧(どちらも現三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ名古屋)等、錚々たるメンバーが名を連ね、当時の在籍メンバーには、篠山竜青(現東芝ブレイブサンダース神奈川)や多嶋朝飛(現レバンガ北海道)がいた。“ディフェンスをしっかりやって、走る”というスタイルが自分にあっていると思った藤永は、『ガードのポジションを極めるなら、ここしかない』と進学を決意したのだった。

中学生活残り半年ではあったが、北陸高校バスケットボール部監督の寮に住みながら近くの中学校へ通い、放課後は北陸高校への練習に参加していた。「福井の人は本当に皆良い人で、中学校には半年しかいなかったけど、その時の友達は今も連絡をくれます。」

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ケガとの戦い

そんな恵まれた環境の中、無事中学を卒業し、晴れて自分の望む楽しいバスケ漬けの毎日となる・・・はずだった。
しかし、入学直前に左足甲の舟状骨を疲労骨折してしまう。「入学式にすら参加できず、早く行っていた意味があったのかなって思いましたね。ここから高校生活はケガが多かったです。」
1ヶ月遅れのスタートにもなり、「1年生の時は、本当にただきつかった。」の一言。実際に試合にでられたのは、最後のウインターカップの数分だけだった。

2年生から徐々に試合にでられるようになっていく。夏のインターハイ、チームは結果3位に終わったものの、準々決勝でその年のウインターカップ優勝校の強豪明成高校に勝利。藤永は控えスタートながら、30分以上のプレータイムがあり、強いチームに勝ったと自信となる1試合だった。その活躍もあり、U-18日本代表の候補選手に選ばれた。ところが、ミニ国体の試合中に再び左足甲の舟状骨を疲労骨折してしまい断念。リハビリに励む日々となる。


キャプテンとしての自覚と学び

3年生になりキャプテンに就任。コーチが親身になって面倒を見てくれたかいもあり、骨折をした箇所も万全な状態。主力メンバーも、野本建吾(現東芝ブレイブサンダース神奈川)・坂東拓(現三井住友銀行)・田野司(現黒田電気)・劉孟涛(現日本大学)等、有力選手が多数揃い、「余裕で優勝できる」と思っていた夏のインターハイ。結果はベスト16。「勘違いでしたね。全員が得点力のもつ選手ばかりだから、俺が俺がとなってチームとしてまとまっていなかった。」
チームの課題を感じていたものの、どう修正していけばいいのか悩む毎日を送っていた。キャプテンとして先頭にたってチームを引っ張るため、自ら意識を高く持って行動をしていったが、その後の国体でもベスト16。天皇杯(オールジャパン)北信越予選では、決勝で新潟教員に1点差で負け、出場を逃してしまう。

悔しい思いが続いて迎えた、最後のウインターカップ。ここからようやくチームはまとまっていき、歴代の先輩もなしえなかった、初優勝を果たす。「バスケットをしていて、一番というくらい泣きました。本当に嬉しくて。」
キャプテンとしてまとめあげた達成感もあったのかと聞くと、「僕は何もしていないです。スタメン以外の3年生が下級生をしっかりまとめてくれたおかげで、僕たちが試合に集中する事ができました。歴代の先輩も会場まで応援に来てくださったり、負けている時でも支えてくれた皆さんの力もある。チーム全員で勝ち取った優勝だと思っています。」

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再びケガに苦しめられた大学時代

大学進学は、高校の時のように「ここに行きたい!」と自ら志願する大学は特になく、京都の有名大学も受験していたが、縁あって東海大学への進学を決める。

1年生の時は、これまでちゃんとしたウェイトトレーニングをしたことがなかった事もあり、毎日のトレーニングが辛かった。「最初入った時は、4年間できないなと思いました。」しかし、「両親に通わせてもらっている以上、簡単に諦めてはいけない。」と奮起し、続けていくうちに体は慣れていった。秋のリーグ戦から少しずつ試合に出られるようになったが、今度は右足甲の舟状骨の疲労骨折が藤永を苦しめる。ほぼリハビリ生活となってしまった。

しかし、2年生の春に復帰をした藤永にチャンスが訪れる。春の関東トーナメント直前の練習試合でスタメンの選手がケガをしてしまい、藤永の出場機会が増えることになったのだ。全試合15~20分のプレータイムを勝ち取り、準優勝に貢献。

その後、新人戦で優勝、秋のリーグ戦で準優勝、インカレでまた優勝と好成績を残すが、新人戦でまたしても足の裏をケガしてしまった藤永は万全の状態でプレーすることはなかった。「ずっと2位だったので、チームが1位をとれたときは嬉しかったですが、個人としては、ケガもあって納得のいくプレーができなかったから悔しかったです。」

ケガが続いていた藤永だが、「僕の命の恩人です(笑)」という人物と出会うことになる。
東海大学バスケットボール部初めての女性トレーナー、井上かなえアスレティックトレーナーだ。猫背だった藤永は、彼女の指導で背中を鍛えるようになる。猫背は、シュートが入りにくくなるだけでなく、足にも負担がかかり、体全体に良くないという事を知った。「本当に体の全てを良くしてくれて、ケガをしなくなりました。井上さんがいなかったら、今バスケをやっていないと思います。」

その言葉を証明するように、3年生は控えスタートながら、ケガもなく全試合に出場。当時一緒に試合にでていたのが、1学年上の現在のチームメイトである佐藤正成だった。佐藤の印象を「仕事人でした。」と振り返るように、スタメンだけでなく、控えメンバーの活躍もあり、関東トーナメント2位・秋のリーグ戦全勝優勝・インカレ優勝という結果を残す。

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プロへの決意

4年生になると、キャプテンに就任。関東トーナメントでは、東海大学初の優勝を成し遂げる。

日本学生代表にも選ばれ、野本建吾・晴山ケビン(どちらも現東芝ブレイブサンダース神奈川)・笹山貴哉・中東泰斗(どちらも現三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ名古屋)等と、李相佰杯に出場。韓国代表と対戦をし、結果は3戦全敗。「負けはしたけど、国外の選手と初めて対戦できて良い経験になった。」と語る。その後もカナダのビクトリア大学と親善試合を行う等、世界レベルを体感。卒業後の進路を迷っていた藤永だが、同年代の代表選手からバスケに対する意識の高さの刺激も受け、プロを目指そうと心に決めた。

チームに戻り、秋のリーグ戦も2年連続全勝優勝。このままインカレも優勝して3冠、東海大初のインカレ3連覇が期待されていた。しかし、結果は準優勝。応援してくれた皆さんに対して合わす顔がないと落ち込んだ。そんな藤永を救ったのは、「これも良い経験と捉えて、前を向いてほしい。」というOBからの励ましの言葉だった。「結果は納得していないけれど、このチームに入って本当に良かったと心から思いました。」

大学生活最後の試合。豊田通商ファイティングイーグルス名古屋と対戦をした天皇杯(オールジャパン)は、何かの巡りあわせか、東京Zが千葉ジェッツと戦っている隣のコートで行われていた。

周りの温かい支えと、他の4年生のメンバーがいてくれたおかげで、最後まで気持ちを切らさず戦い抜く事が出来た。

「チームディフェンスを重んじる小野秀二ヘッドコーチの下でバスケをやってみたい。」と、アーリーエントリーで東京Zへの加入を決意。東海大学の陸川監督からも「小野さんのバスケは、あきにあっているよ。」と言われていたという。チームでの役割をどう考えているか聞いてみると、「ルーキーという考えは捨てて、自分が先頭にたって、オフェンスでもディフェンスでも、チームを引っ張っていかないといけないと思っています。」と、すぐに答えが返ってきた。

「これからも、向上心を持って取り組んでいきたい。」と取材中口にしていた。練習では一番声をだし、「練習が楽しいんですよ!」と目を輝かせている。ルーキーらしからぬ存在感を既に放つ藤永。
さらなる高みに向け、彼の成長から目が離せない。

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