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嶋田基志「無欲からの成長 逆風を乗り越えて」

 

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『基本を志す』と書いて『基志』。
祖父が名付けてくれたという名前の通り、嶋田はすくすくと、真っすぐ育っていった。


バスケットとは無縁の幼少時代

幼稚園の頃から周りの友達よりも既に頭1個分はでるほど、高身長。習字や塾にも通っていたが、さぼってばかり。毎日外で遊びまわる、活発な男の子だった。
父親と一緒にプロ野球中継をよく見ていた影響もあり、1番好きなスポーツは野球。『将来の夢はプロ野球選手になる事』と小学校の卒業文集に書いていたとか。

バスケットボールはというと…
「小学校の時は、体育の授業でやっていた“ポートボール”しか知らなくて。ポートボールがバスケットかと思っていたくらいです(笑)」と、全くの無知状態。
小学4年生から部活動が始まり、サッカー部に入部。しかし1番力を入れていたのは、友達に誘われて入った、学校外でのドッジボールクラブだった。全国大会でベスト3にも入るような強豪クラブ。強くボールを投げるために走りこんだり、ディフェンスでボールをしっかり補給するため低く構える姿勢を保ったり。バスケットに繋がるものがあったのかもしれない、と振り返る。

小学5年生で、身長は170cmを超えていた。この頃、嶋田の体に少し異変が起きる。
心臓は子供のまま急激に身長だけ伸びたため、血の巡りが悪くなり低血圧症となっていたのだ。朝起きてちゃんと学校まで行くが、すぐに気持ちが悪くなってしまう事が続いていた。「その頃の記憶は、早退を繰り返していたことばかりですね。でも夜になると元気になるので(笑)。ドッジボールの練習には行っていました。」
徐々に体も慣れていき、卒業する頃には日常生活に影響はでなくなったようだ。


ルールも知らない中学時代

中学生になり、初めてバスケ部の練習を見学。「バスケっておもしろいな」と思い入部を決意。「最初は野球部に入ろうと思っていたんです。でも、練習を見ていたら結構大変そうだったので、楽しそうなバスケ部に入って体力をつけて、野球部へ転籍しようと思っていました。」
ルールも全く知らない、文字通り『0』からのスタート。ドリブルもままならない状態だった。身長が大きいという事で1年生からベンチ入り。負けている試合のラスト数分だけ出場したときは、わけがわからずコートにいた。そんなスタートではあったが、バスケットを好きになり、いつしか野球部にいきたいという気持ちはなくなっていた。

2年生になり、ようやくルールがわかってきた。試合にもちゃんと出場できるようになったが、1回戦負けが続く。
そんな時、転機が訪れる。ジュニアオールスターの愛知県選抜メンバーに選ばれたのだ。東海大会では1勝もできなかったものの、全国大会では、既に190cmあった身長を活かし、数年ぶりの予選リーグ突破に貢献。決勝トーナメント1回戦で、橋本竜馬(現アイシンシーホース三河)や小林大祐(現リンク栃木ブレックス)を擁する福岡県と対戦。完敗した。「何もできなかったんです。今まで地元のチームとしか対戦をしたことがなかったので、全国には沢山上手い奴がいると知りました。」

その後、日本代表U15の強化選手にも選ばれ、佐藤久夫監督(現明成高等学校監督)の元、練習に励んだ。「凄く厳しかったですね。頭を使ってちゃんとバスケをするという事を学びました。それまでビックマンは走らなくて良いというイメージだったけれど、“ビックマンでもちゃんと走る!”と教え込まれて、意識が変わってきたのもこの頃です。」
その成果もあってか、3年生では1回戦負けしていたチームを県大会ベスト3まで勝ち上がらせるほど成長していた。

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無欲からの成長

目覚ましい飛躍もあり、高校は県外の強豪校からも沢山の声をかけられたが、地元愛知県の愛知産業大学工業高等学校への進学を決めた。「能代は強いというイメージはあったけど、他にどんな高校があるのかとか、全く知らなかったんです。半ば強制的に(笑)先輩に「来いよ」と誘われたのと、卒業前にウインターカップを観に行ったのですが、その時に応援が凄くて、選手も楽しそうにバスケットをしていたので、良いチームなんだなと思って決めました。」

3年生が主体で練習を行っていた。嶋田に期待をしてくれていたのか、センターのスターター選手が、常に1on1でセンタープレーを教えてくれ、目をかけてくれていた。その期待に応えられるよう必死についていき、練習終わりには『今日の自分はどうだったか?』とアドバイスをもらっていた。

1年生からベンチ入りをし、能代カップに出場。唯一知っていた能代工業高等学校とも対戦。その時に、自分のできなさがよくわかった。十何秒のプレータイムだったが、体のあたりが他の学生と全く違う。もっと練習をしないとと痛感した大会となった。
その後国体メンバーに選出。しかし、最初の練習試合でリバウンドをとりにいった際、着地に失敗をして足首を骨折してしまった。しばらくリハビリの日々・・・ではなく、骨がくっつくとすぐに練習。2か月後の本国体にも出場した。
「あの頃はリハビリなんてできなかったです(笑)怪我をしても、治ったらすぐに練習。今でもちょっと骨はでていて腫れた感じになっていますが、若かったせいか、案外すぐに動けていました。」

2年生になり、県内で2強と言われていた安城学園高等学校が力をつけ、インターハイでベスト8まで昇りつめていた。これまで愛知産業が県内では優勝していたが、立場は逆転。年度の最初に行われる新人戦で負けた時には、顧問の先生から「お前のせいで負けた。」と言われ、「こんな高校辞めてやる!」と言い放ち、学校にも行かなくなった。初めての反抗期だ。卒業した先輩から「期待されている証拠なんだから、頑張れ。」と説得され、練習に参加。それからは特に何も言われなくなったが、練習はより厳しくなった。

チームの成績は低迷したままだったが、嶋田は日本代表U18のメンバーに選抜される。川村卓也(現三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ名古屋)・西村文男・荒尾岳(共に現千葉ジェッツ)等とFIBAアジアジュニア選手権に出場。初めて世界の舞台へ挑戦した。「世界の壁は厚かったです。他の国の選手は気持ちから違う。国をかけて戦うということを肌で感じた。」
特に印象に残ったことは?と聞くと、「イランに2m28cmくらいの選手がいて、リングを持ちながらアキレス腱を伸ばしていたんです。「こいつなんなんだ」というのが凄い印象に残っています(笑)。あとは、帰国して1回目の練習の時に、スピードやパワーが違うから、日本はレベルが低いんだなと感じました。今までうまいと思っていた選手も、そうではないんだなと。」
より一層練習に励み、2年生の時は結果がでなかったが、3年生では県大会で全勝優勝。ウインターカップにも出場した。


選手としての意識の目覚め

結果もだしてきた嶋田。大学も全国から声がかかり、数ある中から選んだのが東海大学だ。よりレベルの高い大学でプレーしたかったからかと聞くと、「特にそういう事ではないです。高校と一緒で、強い大学とか知らなかったですし、譲次さん(現日立サンロッカーズ東京)とかの存在も知らなくて。」と、またもや無欲の強さを見せる。「陸さん(現東海大学監督)が何回も試合に足を運んでくれたんです。その気持ちに応えたいなと思って決めました。」

入学してみて、これまで経験した以上の練習量となり、慣れるまで辛い日々が続いた。しかし、辞めたいとは一度も思わなかったという。当時の4年生は、竹内譲次の他に、石崎巧(現三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ)、内海慎吾(現京都ハンナリーズ)等、バスケットの黄金世代と呼ばれる選手が多数在籍。プレーの技術もだが、バスケットに対する意識の高い選手が集まっていた。「特に印象に残っているのは石崎さんですね。毎日自主練に参加して、シュートは一切打たず、ずっと一人でハンドリングの練習をしていました。自分に必要な事を黙々とこなす。その大切さを学ばせてもらいましたね。モチベーションも上がりました。」

関東トーナメントでは、日本代表活動でいなかった竹内の代わりにベンチ入り。帰国後も常にベンチには入り、4年生にがむしゃらにくらいついていった。
その経験も活かし、2年生では、東海大初の新人戦優勝を果たす。その波に乗って、シーズン通して良い成績が残せるかと思っていたが、結果は続かなかった。キャプテンである小林慎太郎(現熊本ヴォルターズ)の怪我もあり、チームがまとまらなかったのだ。

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初めてベンチ外からコートをみて

3年生になり、これまでで1番体の調子が良く、意気込んでシーズンを迎えた。
しかし、夏合宿で左膝を骨折。これからの人生において悩まされる事になる怪我をしてしまったのだ。「がんがんダンクもしていて、“今年はやるぞ”と気合いも入っていたんです。結果をだしていって“プロ選手になろう”と心に決めた直後でもあったので、ショックが大きかったですね。」
それからはリハビリの毎日。陸川監督からは、「焦っても仕方ないから、しっかり時間をかけてちゃんと治せよ。」と言われ、チームメイトからも「早く戻って来いよ。待っているから。」と励まされた。バスケを始めて、初めてベンチ外でチームの試合を観戦。悔しさと、『試合にでたい、バスケがしたい』と強く思った。その反面、『また戻れるのか』と不安の気持ちも拭いきれなかった。

4年生の関東トーナメントで復帰。しかし、半年以上のブランクは、想像以上に動けなくなるものだった。無意識に足を引きずりながらプレーをする事も続いた。“やりたいのにできない。思ったプレーができない。”リハビリの結果も良い方向に向かわず、時間だけが過ぎていった。「早く治らないのか。」不安と葛藤の日々。
ベンチ入りはしていたが、プレータイムはほとんどない。チームの結果も目標に到達することはなかった。


夢のプロ選手へ

大学時代、ほとんど活躍の場を魅せる事ができなかった嶋田に声をかけるチームはなかった。どうしてもプロ選手になりたかった嶋田は、新規にできるチームのトライアウトを受けようと決意。そのタイミングで、アイシンシーホース(現アイシンシーホース三河)からオファーが。即答で「行きます」と答えた。
アイシンといえば、常に優勝争いをし、当時は、佐古賢一(現広島ドラゴンフライズ監督)、柏木真介、桜木ジェイアール、竹内公輔(現広島ドラゴンフライズ)が在籍。絶対王者として君臨していた。

チームに合流して1番の驚きは練習量の少なさだった。「量より質の練習になりました。自分たちで必要な事を考えてバスケをするというのがアイシンのスタイル。同期の古川(現リンク栃木ブレックス)と一緒にメニューを組んで練習していました。」
チーム練習の時には、桜木ジェイアールとマッチアップ。「軽々やっていても、ステップはうまいし、周りがちゃんと見えていて、シュートも決める。1番近くで勉強をさせてもらいましたね。」恵まれた環境のなか、プロの1歩を踏み出した嶋田。しかし、東日本大震災が起こり、1年目のシーズンはリーグの途中で終了となってしまった。

2年目からは、仕事をしながら選手を続けていた。シーズン前は、午後の練習まで仕事。完全オフシーズンは、普通にサラリーマンとして働いていた。最初は生活のリズムも変わり、疲れがとれない事もしばしば。「プロは24時間バスケの事だけを考えていればいいけど、仕事をしながらだと会社の事も考えないといけない。そこのバランスをとるのが難しかったですね。」
チームは、佐古賢一の引退や竹内公輔の移籍等、下馬評が低くなる中、天皇杯5連覇、リーグ優勝に向けて戦っていた。結果は、天皇杯・リーグとも準優勝で終了。悔しいシーズンとなった。

3年目。天皇杯は廃部直前のパナソニックの勢いに負け準優勝だったものの、リーグでは4年ぶりに優勝を果たす。「昨年悔しい思いもして、チーム一丸で戦っていたシーズンだったので、凄い嬉しかったですね。代々木第二の満員の雰囲気・大歓声が気持ちよかった!あの空気をもう1回味わいたい!」

嶋田自身はというと、チームの活躍とは裏腹にベンチで過ごす時間が長く続いていた。コート外では仕事が忙しく、練習後に仕事に戻る事もあったという。『バスケに集中したい。』5年目を迎える年。真のプロ選手になろうと、和歌山トライアンズへの移籍を決意した。

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厳しい現実

経営破綻の危機に陥っていた和歌山だが、経営陣を一掃し、再起を図るシーズンとなっていた。アイシンの時のように恵まれた環境ではなかったが、24時間体育館は自由に使え、トレーニングルームも完備されていた。活躍の場を求め、期待を持って和歌山の地へ。

しかしその時期も長くは続かず、2015年1月、2度目の経営破綻。保有法人がリーグへ退会届を提出し、和歌山県バスケットボール協会が中心となってシーズン終了後まで支援をすることが決定した。

毎日不安の中でバスケをしていた。トレーニングすらままならない環境で、チームも当然暗い。その後、日本バスケットボール選手会や選手自らのクラウドファンディングからの支えもあり、なんとかシーズンを終えることができた。「アイシン時代は会社や地域の方からもしっかりサポートをしてもらっていて、まさかこんな思いをする事になるとは思わなかったです。天国と地獄を見ましたね。苦しい思い出しかないです。」

まだ現役は続けたい。次はどうしようか。悩んでいる時に1番に声をかけたのが、アースフレンズ東京Zだった。プロチームへ再び入る事に迷いはなかったのか聞くと、「正直不安でした。今でも不安はあります(笑)。ただ、ずっと声をかけてくれて自分を必要としてくれた。その熱意に応えたいと思いました。」
1番心強かったのは、和歌山トライアンズで一緒だった#11橘選手の存在だ。「去年の苦労も知っているので、僕にとって存在が大きいです。プロとしての経験も沢山あるので、いつも相談にのってもらっています。」

和歌山時代と違うのは、イベントの参加等、ファンの方にちゃんと顔を出す機会が多いことだという。大田区観光PR特使に就任する等、地域との連携も強い。「人との繋がりや地域の支援というのが1番大事だと身をもって感じたので、そういう事をこれからも大事にしていきたいと思っています。」

肝心のプレー面について最後に質問をすると、「Zの選手は若い。それが良いところでもあるし、弱点でもあるかなと思っています。本来の“バスケット”をまだ知らない。がむしゃらに素直にプレーするだけじゃなくて、もう少し駆け引きをしたらいいのになと思う事があります。そういう部分でもチームを引っ張っていきたいですね。」と、力強い言葉が返ってきた。

プロ選手としての、酸いも甘いも知った嶋田が、東京Z2年目のシーズンをどこまで引っ張っていってくれるのか。成長が楽しみで仕方がない。

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