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中村友也「不屈の精神」

中村コラム

東京Zの精神的支柱を担う中村友也。ファン対応の良さはリーグ屈指と評判が高く、その姿勢は若手選手にとっても鏡になっているのは言うまでもありません。そんな中村のこれまでのキャリアを聞いてみました。


目立ちたがりの幼少時代

お父さんが料理人、お母さんが管理栄養士と、お料理一家に産まれた中村。
幼い頃からやんちゃで、「ミツバチを素手でとったり、ダンゴ虫を孵化させたりしていました。」と話すほど、虫取りが大好きな子供だった。
小学校へ上がる頃からは、とにかく誰よりも目立ちたいと考えるように。この頃から、今の『チョモ』が作り上げられていたことが伺える。

スポーツは得意でなかった中村少年は、習字やピアノを習い、授業では社会や歴史・図工の時間が大好きだった。「ソフトボールや空手もやりましたが続かなかったですね。工作が大好きで、黙々と物作りに熱中する子供でした。科学クラブにも入っていて、スライムを作ったり。お菓子作りも大好きで、従妹のお姉ちゃんに教わっていました(笑)。男の子らしく、秘密基地を作ったりもしていましたよ!」

1つの事に集中してしまうと他のことが目に入らなくなり、よく先生から注意もされた。「他の子に比べるとちょっと変わったタイプだったと思います。怒られるとすぐ家に帰ってしまったりして、母親はよく学校に呼び出されていましたね。ずっと手におえないと言われるくらいの生徒だったんですけど、4年生の頃に出会った担任の先生が“これは、彼の個性だから”と受け入れてくれたんですよ。ぎゅうぎゅうに矯正をさせるのではなく、自由にやらせてくれました。」少し問題児だった中村少年は徐々に更生をし、本来の目立ちたがり屋の性質もあって、6年生の時には生徒会長のような役目を務めるように。
「子供の時って、“あれやってはダメ、これやってはダメ”って、ダメと言われることが多いじゃないですか。その先生と出会っていなかったら、また違う人間になっていたかもですね。当時の先生方には感謝しています。」


きっかけは“モテたい”から

中学校に進学し、友達から「バスケ部に入ったら女の子にモテるで」と誘われるがまま、バスケ部に入部。当時『スラムダンク』も流行り、バスケットのブームが起きている時だった。
しかし、バスケットボール部の実情は、練習をする環境が整っていなく、活動はほぼしていなかった。「学校自体もやんちゃな生徒が多くて、“どうにか変えたいな”と思い生徒会に立候補しました。」
1年生は会長にはなれないため、副会長として生徒会入り。それが思いの外楽しく、活発に活動をしていくことになったのだ。
「学校の環境が良くなるように、先生と話し合いながら色々やりましたよ。例えば、給食。今だと、アレルギーの子には別メニューがでることが普通になっていますけど、昔は皆一緒のメニューだったじゃないですか?それだと、食べられない物がでてきてしまうから、同じ給食費払っているのに不公平だよなと思って、その子にあったメニューを提供できるようにしました。」
“誰かのために”という想いで活動をし続けた結果、2・3年生では選挙で生徒会長に選ばれるほど、学校全体から人気を得ていた。その反面、ずる賢い一面も。
「小学生の頃からなのですが、校長先生に勉強を教えてもらったりしていました。それが1番良いと思って。校長室って冷暖房も効いているから快適なんですよね(笑)。自ら校長室へ行く生徒なんていないし、ましてや“勉強教えて!”なんて校長先生にお願いする生徒もいないから、一生懸命教えてくれましたし、沢山話もできるし、お茶もでますから(笑)。」

ほぼ生徒会としての活動をしていた3年間ではあったが、任期を終えてからの約半年だけ、ようやくバスケ部にも参加。既に身長が192cmあった中村は、それだけで目立つこともあり、すぐに多数の高校から声がかかることとなったのだ。

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バスケットへの覚醒

「まぁまぁ強い学校だから、まずは行ってみろ」と進められて入学をした、大阪府立東住吉工業高等学校(現大阪府立東住吉総合高等学校)。入学をしてから、インターハイ常連校の強豪学校だという事を知り、全国から集まった選手が100名程入部をした。
「中体連出ましたとか、既に全国レベルでやっていた選手のなかに僕1人素人が混ざってしまったような状況でした。あと、それだけの人数なので、最初の頃は外での走り込みとかのトレーニングが中心でボールには一切触れなかったです(笑)。その時の貯金が今まだあるくらい走りました(笑)それまでちゃんとバスケをやったことがなかったので、初めはレイアップすらちゃんとできなかったから、周りとのレベルの違いを埋めるのも大変でしたね。ただ“3年生になったら使えるようになるんじゃないか”と俺に期待をしてくれる同期がいて、そいつと一緒に頑張ってました。」
6月頃からチームへの練習に参加ができるようになり、当時3年生だった齋藤豊(現東京エクセレンス)に、ポストプレーやリバウンドのやり方等、基礎的なことを教わっていたとか。
初めての夏のインターハイではベンチ入りを果たしたが、その頃には新入部員も半分くらいが辞めるほど時間がある限り練習をする鬼のような日々が続いた。

入部当初は素人レベルだったが、高校3年間は常にインターハイに出場し、国民体育大会のメンバーへも選出。ウインターカップでは2年連続でベスト4に輝く成績も残す等、全国規模の3大大会に出場できる選手へと成長を遂げた。
「最後のウインターカップでの盛岡南戦が印象に残っていて、20点ビハインドくらいだったかな?当時主力だった佐藤託也(現京都ハンナリーズ)も手を怪我していたので、もうダメかなと思っていたのですが逆転勝ちをすることができて。よく“最後まで諦めない気持ちが大事”って言うじゃないですか。言葉で言うのは簡単ですけど、身をもって経験できた試合でした。練習はきつかったけど、バスケを嫌いになったことはなかったですね。」


日本一になりたい

そのまま関西で進学してバスケを続けるものだと思っていたが、高校の監督から「関東へ行ってみるか」と推薦され、東住吉から誰も行ったことがなく、当時伊藤俊亮(現千葉ジェッツ)や五十嵐圭(現新潟アルビレックスBB)、柏木真介(現シーホース三河)といった選手が活躍をしていた中央大学へ進学することを決めた。

入学時からベンチ入りをしプレータイムも得ていた中村だが、1度バスケ部を辞めることになるほど、大学生活は険しい道のりとなる。

きっかけは3年生の時に入れ替え戦で敗退をし、2部へ降格した時からだった。監督も交代をし、若手育成という方針に変わり、4年生は実質戦力外のような扱いとなってしまう。同時に家庭の事情もあり大学に通う事が難しい状況に・・・。バスケ部へ籍はおきながらも、学費を少しでも自分で稼ぐため、バイトに明け暮れる日を過ごしていた。

そのままバスケットから離れて仕事をしようかと考えていた時、bjリーグが発足することに。
「自分でお店をやろうかなと準備を始めていたのですが、OBの方にプロリーグができることを聞いて。それまで完全なプロリーグって日本になかったじゃないですか。これまで“日本一”になれなかったことがずっと心残りで、悔しい気持ちが残っていました。バスケットを嫌いで辞めたわけではないし、自分の気持ちのどこかで続けたいって思っていたんでしょうね。これがラストチャンスだと思って、トライアウトを受ける事に決めました。」

それからの日々は、周りの方からの支援も受けながら、もう1度バスケと向き合い、ブランクを埋めるため、ひたすら練習に時間を費やした。

いざトライアウトの日になると、さすがの中村も緊張をした。“受からないだろう”そんな弱気な気持ちもよぎっていたとか。
東京・大阪で第一次選考が開催され、東京だけで500名近い選手が参加。朝から1日テストは続き、終了毎に声がかからないとその瞬間に道が閉ざされる。終わった時には、100名も満たない人数しか残らなかったが、中村は見事その1名となっていた。

後日開催された最終トライアウトでは、開始4分で靭帯を切るハプニングが。
「絶対そこで諦めたくなかったので、ガチガチにテーピングをしてもらって、痛み止めを飲んでやりきりましたよ。その甲斐もあって、最後まで残ることはできました。が、足が腫れすぎてバッシュが脱げなくなりましたけど(笑)。“これでダメなら仕方ない”と思えるくらい出し切りました。」

最終トライアウトから約1週間後。ついに「ドラフトにかかる可能性があるので、ぜひ会場にお越しください。」とリーグからの一報が。大阪からお父さんも上京し、一緒にドラフト会場へ向かった。

呼ばれても最後の方だろうと思っていた中村だが、予想に反し、2巡目で大阪エヴェッサから指名を受けることに。
「後々聞いたら、トライアウトで怪我をした後も走り回っているのをみて、“根性があるな”と見ていてくれたみたいで。そういう諦めない姿勢を評価していたという話を聞いて、とても嬉しかったですね。今でも学校訪問の時とかに話をするのですが、見てくれている人はちゃんと見てくれていますし、ほんまに自分は大事なタイミングでちゃんと見てもらっているので、周りの方に感謝の気持ちしかないですね。恵まれていると思います。」

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夢だったプロ選手へ

大阪エヴェッサにはプロ入りから約2年半を過ごすことに。夢だったプロ選手になっただけでなく、加入初年度から悲願だった日本一も達成。連覇も成し遂げるほど、大阪は強豪チームとなっていった。
「地元を中心にメディアの方にも沢山取り上げていただいて、振り返ると自分でも気づかないうちに天狗になっていたと思います。個性をだすためにと、金髪にもしていましたから。コートでの実力と全く伴っていないことをしていましたね。当時の自分をこついてやりたいくらいですわ(笑)。周りに何を言われても聞いていなかったです。」

そして、今では“神対応”と言われるほどのファン対応の中村だが、最初はファンサービスが苦手だったとか。
「入団して最初の試合で負けた時、体育館を出た後ブースターの方に辛辣な言葉をかけられて、ビビッてしまったんですよ。心底応援してくれているからこそのことなのですが、ちょっと怖くなってしまって、裏口からわからないように帰ろうとか、そんな事ばっかり考えていました。そんな時に、“お前らの給料はどこからでてるかわかるか?観に来てくれる人がいるからこそ、飯が食えているんだぞ。お客様は神様だと思え。”と、フロントの方から教えられたんです。」

当時は試合後のサイン会等がなく、徹底的にファンサービスをやろうと心に決めていた中村は、試合後の体育館外で待っているファンがいなくなるまでサイン会を開催。時に2時間も及ぶ日もあったとか。
「あと、設営や撤収を手伝っていた時期もありました。選手って、どうやって自分達がプレーをすることが出来ているかって知らないじゃないですが。ルーキーの頃にそういう経験をすることによって、沢山のボランティアの方々にも支えられ、自分達が試合をできていると知る事ができたので、ほんまに良かったと思っています。」


バスケができることの楽しさ

そんな中村の体に、ルーキーシーズン終盤から異変が起きることとなる。
プレータイムが思うようにもらえず、周りは励ましてくれていたが、文句を多く言うことが多くなっていった。そして、徐々に練習へ向かう気力もなくなり、ついには外へ出る事も辛い状況に。
「色々と考えすぎてしまって、気持ちのバランスを自分でとれなくなってしまったんですよね。チームは辞めないで良いと言ってくれたので、一旦選手契約は解除して、プレーができない分、フロント業務や営業を手伝う時期がありました。」

華やかな舞台から離れ、再びコートに戻るきっかけとなったのが友の死だった。
「半年くらい経った頃、高校の同級生が亡くなったんです。そいつは中学生の頃はスター選手だったけど、高校に入って周りのレベルも上がりプレータイムがもらえなくなっていたんですね。自分は同級生の中でも1番試合に出させてもらっていたので、“お前は俺らの代表なんだから、中途半端なことをするな!”と、常に喝を与えてくれていたんです。遺影を見た時にそれを思い出して、ぶわーっと涙がでて“一体俺は何をしているんだ”と、気持ちの変化が起きていきました。」
“バスケがしたい!”その想いが再び中村の心に戻った瞬間だった。
コートに戻るため、大阪と練習生契約をし、誰よりも早く練習に行き、練習前の準備・練習後の片づけまで1人でこなしていった。

3シーズン目を迎える時には選手契約までこぎつけ、プロバスケットボール選手中村友也は復活を遂げる。しかし!中村の凄い?ところは、なぜか“違うチームでプレーしたい”という気持ちまで芽生えてしまったことだった。
「自分でもぶっ飛んでるなと思うのですが、なぜか違うチームへ行きたい!と思って、東京へ行くことを決めました。」
大阪時代チームメイトだった城宝匡史(現富山グラウジーズ)が東京アパッチ(現東京サンレーヴスの前進チーム)に在籍していた縁もあり、当時ヘッドコーチだったジョー・ブライアント氏に直訴をし、まずは練習生からスタート。それまでの実力も評価され、シーズン終盤ながら、選手契約を結ぶこととなる。その結果中村を待っていたのは、屈辱的な光景だった。
「そのシーズンのファイナルですね。ベンチで大阪の3連覇を見る事となりました。涙もでませんでしたね。“絶対この悔しさは忘れないでおこう”と、その光景を目に焼き付けていました。絶対来年もここに戻ってこようと。」

大阪をでたことに後悔はなかったか?と聞くと、「それはなかったです。」と中村。ブースターからは厳しい声も届いたが、自分の将来を考えた時、ずっと同じチームでいるとまた甘えがでてきてしまう。出たことにより、違う気持ちや世界を知る事ができたので良かったと振り返る。
翌シーズンもファイナルまで勝ち残ったが、琉球ゴールデンキングスに敗れ、2年連続の準優勝。

翌シーズンもプレーオフまで進出する等、順調に選手生活を送っていたが、翌2010-11シーズン。2011年3月11日東日本大震災をきっかけに、東京アパッチは「人道的理由」により全ての活動を停止することに。
「次の週末に向けてチームは練習をしていて、終わって家に帰ったら“解散します”って電話がかかってきたんですよ。ついさっきまでハードな練習をしていたのに突然のことだったので、衝撃は大きかったです。」
その後は自主練をしながら次のチームを見つける日々。2011-12シーズンよりbjリーグへ新規参入をする千葉ジェッツへの加入が決まる。チームとして立派な成績は残せなかったが、2年間中心選手として千葉でプレーをした。

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オールスターに出場したい!

2013-14シーズンからは、NBLに新規参入をするつくばロボッツ(現サイバーダイン茨城ロボッツ)へ加入。中川和之とは、この頃からのチームメイトとなる。

NBL1年目。個人の目標として掲げていたのが、オールスターへの出場だった。
「ずっと目標にしていた“日本一”という夢は大阪の時に達成していたのですが、もう1つ成し遂げたいことがあったんです。それは、“オールスターに出場する”こと。オールスターって、ファンの方の投票によって決まるので、そこに価値があると思っていて。bjの時は惜しいところまでいったこともあったのですが出ることはできなかったので、絶対に出たい!と思っていました。」

これまでの努力の甲斐もあり、F/C部門で2位となりオールスターへの出場を果たし、当時開催会場となった大田総合体育館のコートへ立ったのだ。それは中村にとってとても大きい事だったとインタビュー中振り返る姿をみて、彼のファンに対する熱い気持ちが伝わった。

しかし、またここで試練の時が。翌シーズンには運営会社の経営破綻によりチームは分裂の危機に。15名いた選手も5名しか残らないという事態となってしまった。
「生活もあったので、自分も残るかどうかとても悩みました。残ると決めた決め手は、応援してくれる人がいる限り最後までやろうという気持ちでしたね。何事もですが、辞める事は簡単、続けることは難しいです。残ったチームメイトで1からチームを作り上げて、結果、不甲斐ない成績しか残せなかったですが、ファンの皆さんにもとても助けてもらいました。ロボッツでの3年間は、最後まで諦めない気持ちをもってやることが大事だということを、再度学ばせてもらいました。」


まだまだここから

B.LEAGUE開幕と共に移籍を決めた中村。

「凄い派手な成績を常に残してきたわけではないですが、ほんまにいつも見てくれている人がちゃんといて、自分はここまでプロ選手を続けられています。山野代表と初めて会ったのが、大田総合でのオールスターの時ですね。その頃からファン対応のこととか、プロとしての姿勢を凄い評価をしていただいていて、今に繋がっています。」

つくばロボッツで3年間共にプレーをした中川とは、退団を決めた際「ようやく離れ離れになれるね(笑)。」と熱いハグを交わしたが、その数ヶ月後に中川がアースフレンズ東京Zへ加入。
「ほんまに俺のこと好きやなーって言いましたから(笑)。“お前は俺が辞めるまで引退できないんじゃ(ものまね入り)”って言われましたよ。」という微笑ましい?エピソードも。

前半戦を終え、厳しいシーズンを送る東京Z。若手選手が多いなかで、自分の役割をどう考えているのか最後に聞いてみた。
「偉そうに言えるキャリアがあるわけではないですが、このチームにプラスになることを多く残していきたいと思っています。かずは、背中でチームを引っ張ると言いますか、ぴりっとした緊張感をチームに与えることができるので、自分は皆が安心できるような存在でいたいですね。緊張ばかりが続くのもいけないので、ガス抜きというか、チームのバランスをとれるようにやっていきたいです。」

アースフレンズ東京Zは、自分も成長していけるチームと語る中村。B2優勝・B1昇格に向け、諦めない精神で前を見続けている。

代表山野の熱い想い・小野ヘッドコーチの熱い闘志・フロントやボランティアスタッフ、そしてファンの皆さんの熱い気持ちが融合したとき、そこにはどこのチームにも負けないパワーが生まれるはずとも話していた。異色のキャリアを持つ中村の挑戦はまだまだ終わらない。

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