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泉秀岳「沈んだ分だけ高く飛べる 迷った分だけ強くなれる」

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泉の実家は「経王教会」というお寺。
お寺の子供らしく、朝は庭掃除に始まり、仏壇への挨拶やお墓参りが日課だった。
 
「秀岳(しゅうがく)」という名前は住職である父親の師にあたる方からいただいたもの。
その名前には、『何か一つの事に、山のように大きく秀でた人間になるように』という意味が込められている。

 
子どもの頃は泣き虫だったという泉は、親の薦めもあり小学2年から空手を始める。
「ハードに動くスポーツが好きだった」という泉は中学1年からはサッカーも始め、充実した中学生活を送っていた。


突然の異変

中学1年の夏のある日のことだった。朝起きると視界の左側に虫が飛んでいるように靄がかかって見えた。

一時的なものだろうとそのままにしておいたら、日に日に症状が悪化していく。さすがにこれはおかしいと眼科で診察を受けたところ、なんと「網膜剥離」との診断。しかも、すぐに処置を行わないと失明の危険があるような状況で、ただちに手術が行われた。 幸い大事には至らず、視力は回復した。

しかし、顔に拳が飛んでくる可能性のある空手や、頭を使ってボールを扱うサッカーは眼への影響を考慮し、ドクターストップがかかった。 多感な時期に、これまで熱中してきたものが出来なくなってしまったショックは相当なものだった。 治療が終わり退院した後も、1年近く沈んだ気持ちで日々を過ごしていた。

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バスケとの出会い

そんな泉に声をかけたのが、バスケットボール部の監督だった。

バスケも顔への接触が全くないわけではないが、空手やサッカーよりは安全だろうということで許可が下り、2年生からバスケ部に入部することを決めた。

偶然にもバスケ部は市内で一番強いチームで、チームメイトもバスケに情熱を持った仲間たちだった。 身長は高かったとはいえ、中学2年でバスケを始めた泉にすぐにプレータイムが与えられるはずもなく、1年間は勝敗が決まった場面で試合に出してもらえる程しか試合に出る機会はなかった。

 

それでも泉はどんどんバスケにのめり込んでいった。休みの日にも仲間と集まって、1日中バスケばかりやっていた。家族や友達からは「そんなにバスケばっかりやってて飽きないの?」と呆れられていたほど。

バスケ部での日々は、一度失った情熱を再び燃え上がらせるのには十分だった。 3年時には身長が高かったこともあって、スタメンで試合に出場するようになった。


スコアラーとしての目覚め

高校は狭山市の西武文理高校へ進学。泉が進学する前年からバスケ部の強化が始まり、1年生ながら主力として活躍している西武文理の選手の姿に憧れ、進学を決めた。

部活の練習は、”とにかく1対1で勝てなければ試合には勝てない”というチームコンセプト。しかし、チーム練習の2時間はディフェンスやフットワークばかり。

オフェンスの練習もないわけではなかったが、”オフェンス力は自分で練習して身に付けるもの”という方針が取られていた。

 

泉は毎日6時半に学校に着くと、授業が始まるまでの自主練習の約2時間、毎日ひたすらシュートを打っていた。昼休みは先輩と1on1をして過ごし、放課後は部活の練習という生活スタイル。練習では毎回のように怒られてばかりいたが、泉にとっては楽しい日々だった。

積み重ねた自主練習によるシュートや1on1も徐々に自分の力になっていき、ただのインサイドプレーヤーから、高い得点能力を備えるスコアラーへと進化していった。

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逃した最大のチャンス

泉の成長もあり、チームは県内で上位争いができるまでに力をつけていた。 そして迎えた1年生の冬の新人戦。

この大会でベスト4に入ることが出来れば、夏のインターハイ予選でシードに入ることができる。その年の夏のインターハイは、地元埼玉県での開催。県からの出場枠が1つ増えるのだ。

つまり、インターハイ常連のチームに勝たずとも出場枠を確保できる可能性が出てくるのだ。全国初出場を目指すチームにとっては、虎の子の一枠だった。

しかし、この大事な大会で泉は体調を崩しダウンしてしまう。これが影響し、チームも上位に進出することができず敗退してしまった。 泉は深く自分を責めた。 先輩たちは今年の夏、最後にして最大のインターハイ出場のチャンスだったのに、それを自分が潰してしまったという自責の念にかられ、1週間ほど練習にも顔を出さなかった。

 

その時、泉を励ましたのは、泉が西武文理高校へ進学を決めるきっかけとなった先輩だった。

「お前のせいじゃない。それに、まだチャンスは残っているだろ?」 自分以上にチャンスに賭ける気持ちの強いであろう先輩からの言葉で、泉は再び立ち上がり、バスケに向き合うことができた。

結局夏のインターハイ予選は、全国常連チームのいるブロックに入ってしまい、1回戦で敗退。 ウインターカップ予選の出場権も得ることが出来ず、先輩たちは引退していった。


憧れた先輩の意思を継ぎ、初の全国へ

負けた翌日から新チームが始動。泉はキャプテンに任命された。 新人戦の時のように落ち込んでいる暇はない。

先輩の想いも背負いながら、今度は自分がチームを引っ張っていかなければならなかった。

 

1年後、高校3年のインターハイ予選。チームはベスト4まで勝ち進み、決勝リーグに駒を進める。決勝リーグでは緒戦に勝利すると、その勢いで全勝。

1位で全国大会初出場を決めた。 泉は決勝リーグの3試合で合計121得点(1試合平均40.3点)をあげる得点力で、大会得点王となった。

インターハイでは、2回戦で宇都直輝・張本天傑(どちらも現トヨタ自動車アルバルク東京)を擁する中部第一高校に敗れたものの、1回戦・2回戦でそれぞれ38得点をあげ、初の全国の舞台でもその存在を示した。

バスケ雑誌ではウインターカップの注目選手にあげられたほどだった。(ウインターカップにも出場。2回戦で田中大貴(現トヨタ自動車アルバルク東京)のいた長崎西高校に敗れる) 得点面ではチームの中心だったものの、自分で何でもやってしまうというスタイルではなく、仲間が泉を支え、泉を活かすバスケをしていた。

 

「自分が1人で何でもやるというわけじゃなく、みんなで誰かを活かそうというチームの意思がありました。その中で、僕が基点になっていたという感じです。」

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予期せぬチームの変化が与えた意識改革

全国でも結果を残した泉には、多くの大学からの誘いがあった。

その中で、いずれは教員になりたいという思いと、全国の強豪チームから良い選手が入ってくるという話を聞き、関東二部の順天堂大学へ進学した。

 

泉は1年の春からスタメンに抜擢され、同い年の仲間とともにチームを盛り立てた。秋のリーグ戦では3部との入れ替え戦行きとなってしまうが、何とか2部に残留。

泉自身はチームのシステムに順応しきれない部分はあったものの、頼れる同期たちと「徐々にステップアップして、4年生で最高のチームにしよう」と約束し合い、これからのチーム作りに期待を膨らませていた。

 

しかし、2年時にはその同期のメンバーのケガによる離脱や、同期の中で一番活躍していた仲間がチームを去ることになるなど、目指していた目標とはかけ離れた状況が待っていた。 これには大きなショックを受けた泉だったが、今回は自分の力で気持ちを立て直した。 泉は、”プロ選手になること”への意識を明確に持つことで、自分の気持ちを支えた。 その後、泉はチームの中心的なプレーヤーとなっていく。

 

3年時には3部リーグへの降格を味わったが、4年時ではキャプテンに就任し、大黒柱としてチームを牽引した。


開かれたプロへの道

そんな泉に大学バスケ引退後、チャンスが訪れる。 地元のプロチームから練習生として誘いが来たのだ。

泉は迷うことなくチームへ参加した。 だが、そこは自分が想像していたプロチーム像とは何かが違っていた。

そして1ヶ月後、泉はこのチームを離れる決断をした。 このままプロ選手になることなく、もう一つの目標である教員を目指そうかと悩んでいたところ、 知り合いから、アースフレンズ東京Zというチームがあることを教えてもらう。

チームと話をするうち、アースフレンズ東京Zのファンとの交流の仕方や、チームの目指す方向性などが、 まさに自分が夢に描いていたプロチーム像と重なると感じた。 そして、泉はアースフレンズ東京Zでのプレーを決めた。

 

泉に、現在の心境を聞いてみた。

「チームに拓馬さん(渡邉拓馬選手)が入ってきて、すごく刺激を受けてます。ポジションも被っているので、色々と勉強させてもらいながら、拓馬さんのようなプレーヤーになっていきたいです。 ファンのみなさんには、僕はチームのメンバーを身近な存在に感じてもらえたらと思っています。 そして、ファンのみなさんに喜んでもらうために、試合で得点を取っていきます!」

 

プロバスケットボール選手として、山のように秀でた存在となれるのか。 泉の挑戦がここから始まる。

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