粂川岳勤「志は高く 姿勢は誰よりも低く」
バスケは週5日、運動は週7日
小柄な両親のもとに生まれた粂川。小学校の「前ならえ」ではいつも先頭だった。
バスケを始めたのは小学2年生のとき。学校のスポーツ少年団に入った。
練習は週に5日あったが、厳しい練習をするチームなどではなく、和気あいあいとバスケを楽しむのがメインのチームだった。
バスケのない曜日はスイミング教室に通い、1週間休み無しで運動をしていた。
チームの楽しむバスケに不満があったわけではなかったが、たまに練習試合を行う、近くの強いミニバスチームに憧れがあった。そのチームの先輩と知り合いになり、話をするうちに強いチームでやりたいという想いが強くなっていった。
越境でバスケの強い中学へ
そこで粂川は、親戚の支援を得ながら、自分の家の区域とは違う中学校に進学した。知り合いの先輩がいる学校だった。中学のバスケ部では同じ学年が20人ほどいたが、チームのしきたりですぐにユニフォームをもらえる1年生はおらず、練習中も1年生はコートの周りを囲んで、声出しとボール拾い。3年生が引退するまでは全く練習に参加させてもらえなかった。
3年生が夏の大会で引退し、ようやく1年生も練習に入れるようになると、1年生の中から3人がユニフォームをもらった。粂川はその3人の中の1人だった。粂川本人は「何で選ばれたのか自分でも分からなかったです。声出しを頑張ってたからですかね。」と言うが、当時身長140cmにも満たなかった粂川が選ばれたということは、きっと当時から実力的に光るものがあったのだろう。
ただ試合ではほとんど出番はもらえず、主力は上級生。3番手のポイントガードに出番が回って来るのは、点差が離れた試合の終盤だけだった。
周囲の賞賛も意に介さず
中学1年の冬、1年生だけが出場する大会があり、チームは県大会のベスト4まで勝ち上がった。この大会で粂川は優秀選手に選ばれた。周囲が粂川を見る目が変わり、声をかけてくれる人も多くなった。だが、粂川自身は「褒めてくれた先生方には申し訳ないですけど、全然嬉しいっていう気持ちはなかったです。だって1年生だけの大会ですし。本来のチームに戻れば2年生がいて、そこに自分の出番はないですから。」自分が目指している場所がはっきりとあったからこそ、そこではない賞賛に喜びを感じることはなかった。
背の低さを結果で見返す
中学2年の終わり、粂川は栃木県のJr.オールスター(中学選抜)に選ばれた。チームは大型選手によるバスケを目指しており、長身選手を中心に集められた。その中で、粂川は実力を認められて12人の選抜メンバーに入った。しかし、151cmの粂川はメンバーのローテーションに含まれてはいなかった。5対5の練習の時などは、もう一人の小柄な選手とともに、他の10人がプレーする様子をコート外で見ていることがほとんどだった。
本戦でチームは苦戦。流れを変えるための苦肉の策として、粂川が投入された。粂川はもう一人の小柄な選手と共に、スピードで試合を掻き回した。チームはどんどんと点差を詰めていき、あと少しで逆転というところまで追い上げたが、勝利することはできなかった。
監督から試合後、「お前たちをもっと早く出しておけば良かった」と言われた。
試合には負けたが、粂川にとってはサイズのハンディキャップに勝利した試合となった。
将来を見据えてバスケを続ける決意
粂川は、中学まででバスケを辞めようと思っていた。この身長で、さすがに高校では活躍はできないと思っていたからだ。だが、これまでのバスケでの成績により、就職率が高く家からも近い宇都宮工業高校へ推薦で進学できるチャンスが見えて来たことから、高校でもバスケを続けることを決める。
高校のバスケ部は、試合に出るAチームと試合に出れないBチームに分かれて練習をする形が取られていた。粂川は1年時からAチームのメンバーに入っていたが、ユニフォームはもらえなかった。ベンチ入り”予備軍”だった。
チームの練習は1日1時間?1時間半と、強豪チームとしては短かった。息が切れるようなキツい練習はほとんどなかったが、効果的で質の高い練習が行われていたという。走り込みやシュート練習などは自分たちで時間を作ってやっていた。
1年生のウインターカップからはベンチにも入り、2年生からは6マンとして試合に出るようになっていった。
全国大会での上位進出こそならなかったものの、粂川が在籍していた3年間は3年連続でインターハイ、ウインターカップ出場を果たした。
粂川に与えられた役割は、とにかくスピードで掻き回し、全力でディフェンスをすること。
超速ドリブルで切り込み、アウトサイドで待つ仲間にアシストをさばく。
粂川の持ち味が最大限発揮されるチームのスタイルにより、自らの武器にさらに磨きをかけていくことになった。
“これから”のチームを選び江戸川大学へ
そんな粂川の活躍に、全国のいくつかの大学が手を上げた。その中で粂川が選んだのは、関東3部リーグに所属していた江戸川大学だった。実力的に上の大学や、より好条件を提示してくれた大学もあった。だが、充実した設備と素晴らしいコーチングスタッフ、そしてまだ何の実績もなく、これから強くなっていくチームであるということに魅力を感じ、チャレンジの道を選んだ。
授業にもちゃんと出席し単位を取らなければ練習に参加できないというチーム方針のもと、勉学とバスケットボールを両立させながら、充実した日々を過ごした。勉強が疎かになりチームを去る仲間もいる中で、粂川は必至に目の前のことに向き合い、挑んでいった。
大学4年時には3部リーグで優勝。入れ替え戦で泉秀岳のいた順天堂大学を破り、初の2部昇格を果たした。
プロ選手への思いの芽生え
粂川は大学4年の早々に、一般企業への就職内定をもらっていた。大学を卒業したら、サラリーマンになるつもりでいたのだ。しかし、大学4年の最後のリーグ戦を戦い、入れ替え戦に勝利した粂川の心には、このままでバスケを終わりたくないという想いが強くなっていった。
そして、内定をもらっていた企業へ辞退を申し出て、プロ選手への道を選ぶことにした。
粂川は、地元栃木のプロチーム「リンク栃木ブレックス」のトライアウトを受け、練習生として契約。
その後、育成チームにあたる「TGI D-RISE」に選手として契約し、晴れてプロ選手としての道を歩き始めた。
そして1シーズン後の今年、D-RISEの運営権が山形のチームに移ることとなり、粂川はアースフレンズ東京Zへの移籍を決めた。
「小野ヘッドコーチやフロントスタッフのみなさんが、こんな小さな自分をチームに必要だと言ってくれたことが嬉しかったです。今年からスタートするチームで、言ってしまえばチームが成功する保証は何もない状況。そこが面白いと感じました。」
今後の目標について訪ねると、こんな回答が返ってきた。
「海外でのプレーも考えています。プロ選手としてやる以上、より上を目指していきたいので。そのために、まずは今シーズン結果を残しながら成長していきたいと思います。」
目標を見据えて強気な発言を見せる反面、粂川の口からは何度も「自分が上手いと思ったことは一度もないです。」という謙虚な言葉が聞かれた。
きっと、どちらも彼の本音なのだろう。
誰よりも小さい体で大きな目標を見据え、粂川がチームの先陣を切る。