菊池広明「悔しさを力に変えて」
大型ガードとして期待のかかる、菊池。プロバスケ選手への切符を掴みとるまでの道のりを辿ると、優しい笑顔の裏の努力と人一倍の負けん気の強さが見えてきた
バスケットとの出会い
菊池の実家は、お寺。泉に続き東京Zでは2人目となる。
お寺と言うと、規律正しい厳格な家庭を想像していたが、菊池の場合、自由にのびのびとした家庭環境であった。
幼い頃から活発で、常に目が離せないやんちゃな子供。家族旅行でフェリーに乗った際には、母親がちょっと目を離した隙に、あわや海へ落ちそうになる事もあったとか。ご飯ももりもり食べ、これまで大きい怪我もせず、健康優良児そのもの。名前の通り、心が広く、明るくまっすぐな子に育った。
バスケットを始めたきっかけは、6歳上の兄の影響。4歳の頃から水泳を習っていたが、兄の練習当番の母親についていき、野球かバスケットを見る機会が多かった。小学2年生になり、「練習で泥まみれになるから野球は嫌だ。」という理由でバスケットを習い始める。4年生までは水泳も続けていたが、いつしかバスケットだけにのめりこむようになっていった。
所属していたミニバスチームは決して強いチームではなかったが、基本的な練習はしっかり行い、コーチやOBの選手と1on1も行っていた。人数が揃わなくなった5年生の時には、学校でプラカードを抱え、部員募集をしたこともあるとか。キャプテンも務め、練習以外でもバスケットばかり。1人で30点オーバーをする試合もあり、3人にマークされる事があったのは今では逸話の一つ。
バスケットの虜に
中学校へ入学すると、もちろんバスケ部へ入部。しかし、そのバスケ部はやんちゃな先輩が多く、2年生までほとんど練習が行われない、幽霊部のような存在だった。マンモス校で、体育館を他の競技と分け合わなければならず、週に2回2時間程度の時間しか確保できなかった。
2年生の夏頃から新しいコーチが就任。自身もキャプテンとなり、これまでの時間を挽回するように練習に励んだ。3年生になると、3年生の部員で残っているのは菊池のみとなっていたが、万年1回戦負けのチームが、市のトップ3に入るまでに成長した。当時のコーチからは、バスケットに対する気持ちの部分も沢山学び、今でも食事に行って話を聞いてもらっているとか。
部活を引退してから高校入学までの半年間は、近所のお寺の住職さんが敷地内に作ってくれていたストリートコートで練習をしていた。大学生等、自身よりも大人の人達と1on1をするのが日課。ぴたっと成長が止まっていた身長も、この半年で約10cm以上も伸びた。「バスケをしてご飯をよく食べ、直ぐに寝てを繰り返していたら成長しました(笑)。」その記録は、実家の柱に刻まれている。
高校は、大阪府立豊島高等学校へ入学。朝練から始まり、昼休みにはシューティング。自分達でメニューも決めて追い込み、練習漬けの毎日を送っていた。
1年生の頃から試合には出場。年末になると毎日のように練習試合を行い、多い時には1日4試合。疲れ果て『コートにいるだけ』という時間が続いたが、相手は全国の強豪校。それだけでも刺激にはなっていた。
3年生の時にはキャプテンに就任。得失点差で近畿大会には惜しくも出場する事ができなかったが、インターハイ予選で8位入賞。1番記憶に残り、悔しい気持ちが残っていたが、強い私立の高校が数多くいる大阪府の中で公立高校がベスト8まで勝ち上がる事は、快挙でもあった。
悔しさしか残らない大学時代
顧問の先生の推薦もあり、天理大学へ進学。天理大学と言えば、インカレ3位にも入るほどの強豪校。練習量はこれまでに比べ少なくなったが、沢山のフォーメーションを覚えなければいけない等、頭を使う事が多くなった。今まで自由に好き勝手プレーしていたが、そうはいかない。周りも上手い選手ばかり。
菊池が振り分けられたのは、控えとなるBチーム。結果をだせばAチームとの入れ替えはある。菊池はひたすら練習に打ち込んだ。3、4年時にはBチームのキャプテンも務め、『頑張っていれば、いつかはチャンスが回ってくる』と信じていた。
しかし、一度もAチームに呼ばれる事なく卒業を迎える。「とても悔しかった。」その一言に、当時の菊池の思いがこもっていた。
一度も表舞台に立つことがなかった菊池だが、どんなに評価をされなくとも、腐らずに、自分の気持ちに正直にバスケットを続けていた。「悔しいままでは終われない。将来はプロ選手になる。」そう思うのも、自然の事だった。
バスケ部に推薦で入学した場合、体育学部等に入り、通常の単位で教職の免許をとるのが普通。しかし菊池が入学したのは、国際学部。学部の単位とは別に教職の単位もとっていた。そして、家業の仕事もできるよう、2年生の夏頃から通信教育を受け、夏と冬には京都の本山へ勉強をしに行き、資格も取得。地盤を固め、大学の練習以外にもトレーニングに通い、水面下でプロ選手へ挑戦する準備を進めていた。
そして、卒業直前。父親に「2年間だけバスケをさせてほしい。それでダメなら諦める。」と直訴。「好きにしなさい。」そう温かく菊池の気持ちを受け止めてくれた。
しかし現実は厳しく、試合にでていない菊池に声をかけてくれるチームはない。トライアウトも受けたがひっかかる事はなかった。
1つの縁をきっかけに
卒業をした菊池は、アルバイトと家の手伝いをしながらクラブチームに所属。大阪府のクラブ選手権では常にトップ3に入る強豪チーム。大阪市の大会で優勝をし、『都市間交流スポーツ大会』への出場権を獲得。この大会への出場が、菊池の人生を変える事となる。
『都市間交流スポーツ大会』は、神戸市・京都市・大阪市・横浜市・名古屋市・大阪市の各代表でトーナメントを行う大会。その横浜市の代表で出場したチームに、斎藤卓アシスタントコーチが参加をしていた。試合では菊池と斎藤ACがマッチアップ。
試合後、同じタイミングで更衣室を使っていると、自分のチームのメンバーと斎藤ACが話をしていた。そのメンバーというのが、東京Z前身のクラブチーム『アースフレンズ』に所属していた、渡邊淳である。渡邊は、斎藤ACに「こいつプロ志望なんですよ。」と菊池を紹介してくれた。「プロになれる保証はないけど、東京まで来る気があるなら連絡して。」そんな一声で、チャンスが舞い降りてきた。菊池は翌日すぐに連絡をし、東京Zの練習参加が決まった。
当時の事を斎藤ACに伺うと、「物凄く光るものがあったわけではないけど、マッチアップした時に“こいつ、けっこういいな?”と思ったのを覚えています。話を聞いたらまだ22歳で、185cmでポイントガードができるし、『大学ではずっとBチームでした』と言うので、“これはちょっと化けるかもしれない”と思いましたね。あとは、翌日すぐに連絡をくれたのも大きかった。“本気でプロになりたいんだな”と感じましたから。1週間後に連絡をくれていたら、多分練習に参加させてなかったと思います(笑)。」
最初の練習に参加した時は特に具体的な話はなかったが、数週間後に2回目の練習に参加。1週間後には、1本の電話で加入が決まった。自ら掴み取ったチャンスを活かし、プロバスケ選手への切符を手にした瞬間である。
「卓さんに会ってから1ヶ月ちょっとで決まったので、正直実感が湧かなかったというか。バイトもしていたので、シフトとかどうしようとか、準備に追われて大変でした(笑)。」
プロになって
あれよあれよとプロバスケット選手としての1歩を歩み始めた菊池。
『諦めたらそこで試合終了』その言葉通り、腐らずにやってきたから今がある。
「絶対に見返してやろうと思ってこれまでやってきたので、まずは続けてきて良かったと素直に思っています。」
これまでの経験を活かしきれていなかった菊池。小野ヘッドコーチを中心に色んなことを教えてもらいながら、更に経験を増やせている毎日がとても充実しているという。「小野さんからも一気に色んな事を覚えるのではなくて、1個1個しっかり覚えていくようにと言われています。その言葉を守って、1つずつ着実に成長できるように取り組んでいます。」
乾いていたスポンジが少しずつ水を吸って、膨らみ始めている。
なかなか波に乗り切れないチームが、菊池の大躍進と共に急浮上していく日も近い!