秋葉真司「スタートライン」
15-16シーズン、アーリーエントリーで東京Zへ加入し、後半戦の新たな機動力として活躍をみせた秋葉。甘いマスクでクールな印象を与える彼だが、その裏では、自分自身と葛藤しながら数々の悔しい経験を積み重ね、少しずつ自分の形を作り上げてきた道のりがあった。
スノーボーダーだった少年時代
秋葉がバスケットを本格的に始めたのは、小学校4年生の後半から。それまでは、スノーボードに夢中な少年だった。保育園の年長さんの頃からスノーボードを始め、スキー場が運営する資格のテストを受けるほど、真剣に取り組んでいた。「大人に混じってずっとやっていて、どんどん上手になっていけるのが楽しかったんですよね。」
他のスポーツもやらせたいと思い、父方のおじいちゃんからは野球を、父親からはサッカーを薦められたが、どれもしっくりこない。 そんな中、唯一興味をもったのがバスケットボール。
母方のおじいちゃんが188cmの高身長で、10年連続で国体に選出されるほどのバスケットボール選手だった。小学校2年生の頃、おじいちゃんに誘われ、その後自分が進学するバスケットの名門、秋田県立能代工業高等学校と地元のクラブチームとの交流試合を観戦。初めてみるバスケットボールに“すごいな”と感じたが、まだここでもプレーするというところまでには行かず・・・。
3年生になり、当時の担任の先生から「お前は絶対にバスケットをやった方が良い。」と、特に大きい理由はなく助言をもらい、適当に打ったシュートが入ったのがきっかけで、ようやく「やってみようかな」という気持ちが芽生えた。 「シュートの入った感触が気持ちよかったんですよね。それでバスケって楽しいんだなと思って、4年生の後半頃からようやく始めました(笑)。」
気持ちの熱い男へ
最初はスノーボードも並行して続けていたが、ミニバスの試合にもすぐに出場できるようになり、完全にバスケットにのめり込むようになっていった。
5年生の頃からは県選抜にも選ばれ、6年生では、翌々年地元で開催される全国中学校体育大会(以下、「全中」)に向けての強化選手にも選抜。上級生とも対戦をする機会が増え、よりバスケットの魅力にはまり、より上達をしていった。
中学校への進学は、強い学校へ行くため、それまで住んでいた通学区域外の学校を選択。「通学するために一家で引っ越しもしました。両親は大変だったと思います。感謝しかないですね。」
1つ上の学年に上手い選手が多く、その先輩に追いつくため必死に練習をする毎日。
2年生の時に地元で行われた全中では見事優勝を果たした。
しかし、自分達が中心となる3年生の時には、東北大会3位で終了。“2連覇は自分達しかできない”という思いで挑んだだけに、悔しさは想像を超えるものだった。
「今思い出しても、悔しかった記憶しかないです。中2の時は、3年生についていって、“優勝させてもらった”という感覚でした。自分達の代も、ある程度良い選手は揃っていたから、連覇しか考えていなかったので。なのに、東北大会で終わるという。練習試合では勝っていた相手だけに悔しさは倍増でした。終わった後、帰れなくなるほど永遠と号泣していましたね(笑)。」
そこまで秋葉を熱い男にさせたのは、バスケットだけではなかった。
幼少時代は引っ込み思案で前にでるタイプではなかったが、小学校で応援団をやらされ、「殻を破れ!」と、担任の先生から指導を受け、それまでの自分を知る友達や他の先生、何よりご両親が驚くほどの大声をあげて応援をした。それがきっかけとなり、積極的に色んな事に挑戦。中学校では学級委員の副委員長、全校集会の議長、卒業式では指揮者も務めた。スポーツでは、バスケだけでなくアンカーとして駅伝にも参加。こうした、大勢の中で中心の役割をする沢山の経験が、責任感やチャレンジする心を養い、人一倍気持ちの熱い人間へと成長させたのかもしれない。
NBAよりも能代工業
悔いの残る中学時代を過ごしたが、小学生の頃初めて観戦をし、バスケットを好きになるきっかけとなった、秋田県能代工業高等学校への進学が決まった。小学校の卒業文集の“自分の夢”の欄には、『能代工業に入る!』と書いていたとか。
「1番最初に自分の憧れとして知ったバスケのスーパースターが能代工業の選手だったんですよね。マイケル・ジョーダンよりも、NBAよりも先に知ったのが能代工業でした(笑)。」
親元を離れ、初めての下宿生活。最初の頃は、ホームシックで大変だった。上下関係もとても厳しかったが、『バスケットで強くなりたい!』その一心で日々を過ごしていた。
当時監督を務めていた、佐藤信長氏(現青森ワッツヘッドコーチ)からは、自分の原点となる『泥臭さ』を教えてもらった。
1年生はBチームからスタート。インターハイ・国体は必死にチームの応援に徹した。チャンスが訪れたのは、天皇杯予選。そこで活躍を見せた秋葉は、Aチームに定着。その後行われたウインターカップ予選からは、シックスマンとして活躍。本線では、直前にエースであった選手が捻挫をしてしまい、ほぼスタメンで出場を果たした。
そして、東北のU18にも選抜。メンバーには安藤誓哉(現リンク栃木ブレックス)も名を連ね、華々しい選手街道の道へ向かう・・・はずだった。
自分の原点
2年生になると、エースナンバーである7番を託されたが、なぜかベンチを温める時間が長くなり、「何も上手くいかなかったのが、2年生の時ですね」と振り返るほど、スランプ状態に陥ってしまう。ウインターカップでようやくスタメンで使われるようになるが、初戦負けをしてしまった。
自分の仕事が全くできず落ち込む中、エースナンバーを付けながらも全く結果を残せなかった事への周りからの目線にも押しつぶされ、試合後、学校に戻ってくると直ぐに、「バスケ部を辞めます」と監督に伝えた。
佐藤監督は、秋葉の言葉を受け止め、1つの自分の思いを伝えた。
「能代の1番の良さは、“泥臭い”という事だ。それを1番に表現できるのが、お前だと思っている。シュートは打たなくて良い。リバウンドやルーズボールを追う、ディフェンスをしっかりする。そういう事だけ頑張れ。それができるのが、お前の良い所だ。」
それまでは、“シュートを打って点をとる”という事ばかり考え、それが自分に求められている事だと思っていた秋葉は、この面談をきっかけにもう1度バスケットと向き合い、続ける事を決意した。
「今になって、あの時監督は、シュート以外の部分を求めている事に気づかせるために、敢えて自分を使わない時間を増やしたのかな、と思っています。その時に、泥臭いプレーの意味や必要性を覚えて、今の自分の原点になっています。」
そして迎えた3年生。この年は、インターハイが地元能代で開催された。
開催前から町中は凄い盛り上がりとなり、道を歩いていると「頑張れよ!!」と地元の方から声援を浴び、沢山の差し入れも届いた。プロチーム並の扱いとなる分、プレッシャーも大きいものになっていた。
6月に行われたNHK杯では優勝。インターハイに向け幸先の良いスタート。個人的にもスランプから抜け出し、監督や周りからも認められ、全てが上手くかみ合った大会となった。
その勢いのままインターハイへ。しかし、2回戦で福岡第一高等学校にダブルスコアで敗戦。
能代工業の部旗には、『必勝不敗』という言葉が刻まれている。その言葉通り、常に“勝つ事”しか求められていない。優勝しか見据えていないチームにとって、想像もしていない結果となった。
盛り上がっていた地元の方々からは、厳しい言葉をかけられ、ひっそりと練習をするようになっていた。
その後の国体でも東北予選で負け、ウインターカップもベスト8で終了。
「中学校の時もですが、自分達の代になると結果をだすことができなくて。いつも最後は号泣で終わっていた記憶です。」
大学は関東1部に入りたいと考えていたが、個人として良い結果を残せる事ができず、半ば諦めていた秋葉だったが、佐藤監督からの推薦もあり、明治大学への進学が決まった。
1からのバスケット
当時の明治大学監督は、NBA解説でも有名な塚本清彦氏(現法政大学ヘッドコーチ)。
「高校までの常識や、やってきたことを全部捨てろ。」塚本監督から最初に全員にかけられた言葉がとても衝撃的だったと振り返る。
「やっと泥臭いという基盤ができたところだったのに、全て捨てろと言われ。ポジションも、高校までは身長が大きい方だったのでインサイドとかやっていたのですが、大学では、2・3番ポジションにシフトになって、全てが1からのスタートになり、また新しいバスケットが始まったのが大学1年の時でしたね。」
3年生まではほぼBチームだった秋葉。何度かAチームに上げてもらうこともあったが、その度に怪我や体調不良に悩まされ、期待に応えることができなかった。
「3年間で、ようやく1年分のバスケットをやれたかなって感じでした。最終的にお祓いにも行きましたからね。」
唯一良かったのが、2年生の時の新人戦だったと振り返る。
ベンチを温める時間が多く続く秋葉に、「お前の仕事はなんだ?」と塚本監督は声をかけた。高校の時と全く同じ状況になり、再び自分と向き合う日々。
「また“自分らしさ”を考える時間ができて、当時のアシスタントコーチだった外山さん(アイシンシーホースでも活躍した外山英明氏)に、“自分の仕事はなんですか?”と、相談した時があったんですよね。その時に言われたのが、“自分らしさや自分の仕事というのは、誰かに言われてやるのではなく、自分で見つけだすものだ”って怒られたのですが、結果、それが良いヒントになりました。」
自分らしさの発見まであと一歩というところで迎えた、専修大学との2回戦。シーソーゲームの白熱した展開となり、その中で秋葉は答えを見つけることとなる。自分らしさの原点である、リバウンドを頑張り、ルーズボールも追い、シュートへ持ち込むという『泥臭さ』を思い出したのだ。
これをきっかけにAチームに定着をしたかったが、ようやくコートに戻ってこれたのは、3年生最後のオールジャパンだった。初戦の相手は、当時NBLに所属していた和歌山トライアンズ。3点差で負けはしたものの、自分の原点をしっかりプレーで表現ができ、内容を評価された。そして、次の課題として監督から挙げられたのが、“得点力”だった。
監督が残してくれたもの
次なる課題も見つかり、残りの1年をしっかりプレーしようと意気込んだ矢先、これまで育ててくれた塚本監督の解任が決まった。
新しい監督となり新体制となったが、その監督も5月の関東トーナメントをもって解任。3人目の監督となるが、その頃にはチーム内はバラバラの状態となっていた。
「塚さんの存在が大きかったのだと思います。急に監督が代わったので、チームをまとめるのは容易ではありませんでした。」
『これではいけない』と、4年生でまずは一致団結。秋のリーグ戦の後半頃からようやくチームはまとまり、5位と言う結果をもたらすこととなった。
個人としては、チーム事情もあり、4番ポジションへシフト。身長は少し足りない部分もあったが、自分のスタイルを活かせるポジションとなり、課題となっていたシュート力も、努力の積み重ねが実り始め、チームにも上手くかみ合うようになっていた。
上向きとなったチームは、『優勝!』を目標に掲げ、大学生活の集大成となるインカレへ挑むこととなる。自身も良い状態で入る事ができ、順調に勝ち上がっていったが、ベスト4をかけた青山学院大学との準々決勝で敗退。秋のリーグ戦では連勝をしていた相手だけに、また悔しい結果となってしまった。しかし、インカレでは順位決定戦と、負けた後も試合が続く。そんな時に、恩師である塚本氏から言われた言葉を全員が思い出していた。
「悔しかったですけど、ずっと塚さんに、“負けた後の試合で、いかに勝てるかが大事だぞ”と言われていたので、ちゃんとその事を後輩に伝えるためにも、またそこでチームを1つにまとめようと前を向くことができました。」
結果は6位で終わる事となったが、国士舘との試合は、自分にとってキャリアハイの内容となったと振り返る。その試合はオーバータイムにもつれる激戦。シックスマンとしてコートに立った秋葉だったが、35分出場。突き放されそうな場面で3ポイントを決め追いつき、残り6.9秒で逆転の3ポイントを決める等、チームトップの19PTS、8リバウンドの活躍で勝利に貢献をした。
「中学校の頃から自分がやってきたこと全てがかみ合った試合でしたね。この試合で燃え尽きたと言っても過言ではないです。最後チームが1つになって、後輩達にもちゃんと伝えることができて、苦労した分やってきて良かったなと思いました。」
プロを目指すきっかけ
その良い状態のまま、アーリーエントリーで東京Zへ加入。プロ選手になる事はずっと夢見ていたのかと聞くと、意外な答えが返ってきた。
「最初はプロ選手ではなく、普通に就職活動をしていました。就活生としてセミナーに参加をしたり会社説明会を回ったり。でも、サラリーマンになるイメージが全然湧かなかったんですよね。実業団でバスケットをするという事も考えたのですが、それも想像ができませんでした。」
悩んでいた秋葉に刺激を与えたのは、当時アルバイトをしていたスターバックスコーヒーでの仲間たちだった。バスケ一筋の秋葉にとって、アルバイトの時間は良いリフレッシュの時間になっていた。
「周りには夢を持っている人が多くて。そういう皆と時間を共有していたら、自分がやりたい事って何だろうと、自然と考えるようになりました。」
インカレで燃え尽きたとはいえ、実質、大学生活ではほとんどバスケットができていない。そこに不完全燃焼の気持ちがあると気づいた秋葉は、4年生の春から自分からチームに声をかけていき、そこで辿り着いたのが、東京Zへの練習参加だった。
「大学3年間ほとんど試合にでていなかった自分にとって、練習に参加させてもらう事が凄く貴重で。夏の時期だったので、これを逃したらもう後はないと思って、1回の参加に全ての力を注ぎました。」
そこでの内容を評価され、晴れて加入が決まったのだった。
プロへの入口に立てた3ヶ月間
アーリーエントリー期間は、最後結果を出せなかったものの、プレータイムを勝ち取り、通用しないこともあるが、通用することもあると感じることができた。
「大学での試合が終わってすぐにチームへ合流したので、最後まで駆け抜けたって感じでした。短い期間ではありましたが、本来やりたいと思っていたシューターとしてのポジションも担う事ができて嬉しかったですし、楽しかったです。試合に出させてもらう以上、学生とかは関係ないので、『結果が全て』というプロとしての自覚もできて、チームを背負わなきゃいけないという覚悟もできました。まだまだ足りない部分は沢山あるので、練習に励まないといけないですね。」
ルーキーシーズンに向けての目標を聞くと、『3ポイント王を目指します!』と力強い言葉が。
「得点力は自分が担っていかないといけないと思っています。どのチームにも順応できるというよりも、『このチームには、絶対にお前が必要!』と言われるのが自分の理想の選手像なので、東京Zに絶対的に必要なシューターになりたいですね。そしてゆくゆくは、日本代表にも選ばれたいです。」この春、親友が国際審判を目指して渡米。刺激になる存在が身近にいることも、自分にとってプラスになっていると語る。
これまでの経験がようやくまとまり、基盤が完成した今、どんなことを考えているのか最後に聞いてみた。
「今までは学校の名前が先にでていて、コンプレックスとまでは言わないですけど、自分はその名前を名乗れるほどの成績を残していないので、それに担う選手ではなかったと思っています。これからは、ちゃんと周りにも認めてもらい、自分も胸を張って名乗れる選手になれるよう努力していきます。やってきたことへの自信はあるので、必ずなります。」
沢山の人の支えがあったことも、自分の強みという秋葉。感謝の気持ちを言葉で伝えるのも大事だが、バスケットが出会わせてくれた以上、バスケットで結果をだして、感謝の気持ちを伝えたいという。
いつ会ってもベビーフェイスにキラキラした目を見せるが、知れば知るほど熱い闘志をもつ男だということが伝わってくる。新しいメンバーも加わり、ポジション争いが激しくなってくるが、チームに勢いをつけるシュートを1本でも多く彼が決めてくれることに期待したい。