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西山達哉「転機を経て得た夢」

「つらかった」と語る2年間のサラリーマン生活から、プロ選手の道を歩んだ西山達哉。そんな「人生の転機」から4年。西山は東京Zという新たな地で輝き始めた。

バスケ一家で育つ

西山がバスケットを始めたきっかけは、「2歳年上の姉が楽しそうにバスケをしていたから」。父、母、姉も妹も、家族全員がバスケをプレーする、バスケ一家に育った西山。そのような環境で、西山がバスケを始めたのはごく自然なことだった。
小さい頃から外で遊ぶのが好きで活発な子。幼稚園のころからサッカーを、小学校1年次からはバスケを、2つの競技を同時並行で始めた。しかし、小学校4年次になったときにバスケ一筋に。絞ったのは、「週末の試合がかぶった時にどっちかしか行けなかった」というごくごく単純な理由だったが、「やっぱりサッカーよりもバスケの方が楽しかった」と語った。

初めて全国を経験

西山の通っていたミニバスチームは決して強くはなかった。県大会などの大きな大会にも出たことないほどだった。西山が小学校の卒業文集に書いた夢は、「お菓子屋の店長でしたね(笑)」。当時は特にバスケに対する熱い思いもなかったため、地元の中学に進学して、なんとなくバスケをプレーし続けた。
中学のチームも、そこまでいい結果を残した訳ではないが、西山はJrオールスターに選ばれた経験を持つ。少しずつではあるが、この時期から才能を開花させていった。Jrオールスターは、西山にとって、初めての全国規模の大会。周りには代表経験があり、西山よりも上手い選手ばかりが名を連ねた。「すごい、すごいとしか言ってなかった」。初めての全国。全国というレベルの高さを肌で感じた瞬間だった。
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古豪・能代で成長

その後は秋田県の古豪・能代工業高へ進学する。親の勧めがきっかけで、中学3年の夏に一度、練習を見学しに行った。最初は正直乗り気ではなかったそうだが、見学に行って練習を見たとき、「この高校でバスケットをやってみたい」と受験を決意。当時はスポーツ推薦がなかったため、テストと面接の一般受験で合格を掴み取った。
しかし、高校入学後の3年間は、とにかく「きつかった」と語る西山。練習についていくだけで必死、メニューも厳しい内容ばかり。やりたくない、逃げ出してしまいたいと何度も思った。中学までは、西山が、一番バスケがうまいという環境だったが、高校に入ってそれが覆された。周りは全中経験者など、西山よりもうまい人ばかり。レギュラーになれなくて悔しかった。「頑張らないといけないと思った」。
もちろんバスケをする環境が整っていたことに加えて、バスケだけやっているだけではいけないということを学んだ。3年間、親元を離れての下宿生活。「自分にとっていい経験だった」。洗濯や掃除、身の回りのことを自分でやり、自立できた。一緒に下宿生活をしたメンバーとは3年間ずっと一緒に生活をして、親睦も深まった。バスケだけではなく、人間として成長できた3年間だったという。加えて、「勉強もしないと」と、文武両道に務めた。ちょっとしたことで怒られた高校生活だったため、真面目に授業にも取り組んで、3年間で授業の成績もあがったそうだ。
高校時代は、高校1年次のウィンターカップで優勝する戦績も収めている。しかし、西山がスタメンで出場し始めた2年次、3年次での全国レベルでの優勝経験はなかった。当時のポジションはシューティングガード。点をとる役割だったが、なかなかチームに貢献できない悔しい3年間だった。

楽しかった4年間

その後、駒沢大学から推薦があり、当時3部だった駒大へ入学。1部や2部の大学と比べるとレベルの違いは感じていたものの、「それでも楽しくバスケができていた」。高校までは能力とスピードだけでやっていけたが、大学に入ってからは「フィジカル面での苦悩があった」。当時はガードのポジションではなく、積極的に点を取りに行く、点取り屋。1年次はフィジカルの差でなかなか成績を残せなかったが、3年次にはスリーポイント王に、4年次にはMVPに輝く成績を収め、ずっと3部にいた駒大バスケ部を、2部昇格へ導く立役者となった。
今、大学時代に戻りたいかを尋ねると「すごく戻りたい」と口にした。友人や先輩、後輩と助け合いながら授業を受けた。「4年での最後に12単位くらい残っていて、落とすと危ない、取らなきゃ卒業できないってなって(笑)。その時は焦りました」。バスケットに打ち込みながらも、大学生らしい大学生活を送っていた。また、休みの日にはバスケ部のメンバーなどと出かけていたそうだ。もっといろいろな友達と触れ合いたかった、好きなことを学びたかったとも語る。部活以外に関しても「すごく楽しい4年間だった」。
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サラリーマン生活

西山は大学卒業後に、2年間のサラリーマン生活を送っている。「大学卒業後にプロになろうとは思っていなかったんです。実業団でできたらなって。」と就職活動をしていたものの、うまくいかず。行きたい会社も特になかったが、サラリーマンをしながら、横浜ギガスピリッツというクラブチームで2年間を過ごした。そこでも全国大会に出場し、3位という好成績を収めていた。
仕事はとにかくつらかった。言葉遣いや、人との接し方など、社会人として必要なことを学べた2年間だったが、週に5回、毎日同じことを行う日々。「サラリーマンってこんな感じか」。そのような忙しい中で、バスケットができるのは週に1回か2回ほど。「もっとやりたい」。西山の中で、次第に不満が募っていった。人生に楽しさを見いだせなくなっていた。

バスケ人生の転機

「ずっと定年までサラリーマンをやるのかな」。そう思ってあきらめかけていた。そんな時に、「人生の転機」が訪れる。東京エクセレンスの宮田諭からプロバスケチームに入らないかという誘いがあったのだ。「迷いはなかったですね」。バスケットが大好きで、それが仕事になるのであればという気持ちが強かった西山は、プロとして、バスケットを仕事にすることを選択した。
東京エクセレンスでの4年間は「バスケの面で学ぶことが多かったし、人としても成長できた」。西山がポイントガードを務めるようになったのは、東京エクセレンスに入団してから。「同じポジションの人、全員がライバルだと思っている。対戦する人には負けないようにやりたい」と語った西山。東京エクセレンスでは同じポジションに宮田がいた。「(宮田の存在は)刺激になったし、あの人のおかげで自分の今のポイントガードというものが定着できた。自分が憧れた選手がいたからこそ今の自分があるし、自分もそうなりたいと思えた。一緒にプレーしているチームメイトや、ほかのプロの選手から『西山さんみたいになりたいなと思ってくれたら本当に嬉しい』」。宮田に出会ったこと、そしてプロのバスケットボール選手になったことは、西山のバスケ人生にとって大きな転機となったはずだ。

チームを導くPGに

昨シーズンまで西山が4年間所属していた東京エクセレンスは、東京Zとは昨シーズンまで同じB2の中地区で、争いあった仲だ。当時、西山は「(東京Zは)きっちりしているチームだと思った。システムがあってどんなプレーをしてくるか分かるけど、なかなか止められなかったから、とてもやりづらい印象がある」と思っていた。
そんな東京Zに今シーズンから加入した西山。「点をとった方がチームのためになると思う。オフェンスだけじゃなくディフェンスも、チームのためにやる」。東京エクセレンスの時と比べて考えてバスケットをするようになったという。ポイントガードとしてゲームをコントロールするだけでなく、自ら得点を取ることや、ターンオーバーを減らすことも意識しているそうだ。
現在、チームはなかなか厳しい状況にある。中地区で最下位ではあるが、「チームは成長しているし、まだまだ面白くなる」。頼もしい言葉を放った。

「B1にあがって、B1の選手として戦いたい」。西山の今後の夢だ。チームをB1に上げること、そしてそのために西山自身も、もっともっと上達しなければいけない。「B1昇格を目指すのは変わらない。とにかく勝ち星をかさねたい」。勝ちにどん欲な西山の姿勢が今後の東京Zを強くしていく。

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