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輪島射矢「NBA選手を夢見て」

NBA選手になりたくてバスケットを始めた輪島射矢選手。ずっと変わらない夢に向かって、今も一直線に走り続けている。

小学3年生、目指す夢に向かって

「当時外国人の子供ってあまりいなかったんですよね。僕、クォーターで日本人離れした顔をしているからいじめられたこともあって、絶対に見返してやる。将来ビッグになって絶対に見返してやるんだと思っていました」。幼少期をそう振り返る輪島。加えて、両親が離婚したこともあった。「母親にプール付きの大きい家に住ませてあげたい」と子供ながらに夢見ていた。「父親とも仲良かったので、父親のためにというのもあります。」ちょうどその頃、たまたまテレビでマイケル・ジョーダンのプレーを見た。小学3年生の時だった。「これだったら有名になってみんなを見返せる。お金持ちになれる」将来は決まった。「バスケットを始めてからプロを目指したんじゃなくて、NBA選手になりたいからバスケを始めましたね」。
けれど当時近くにミニバスのチームなどなかった。そうなると輪島は一から作る計画を立てる。「自分で知り合いの人にバスケットボールチーム作ってください、人は僕が集めるんでって言って作りました。たまたまお願いした友達のお父さんが元日本代表の人で。基本的にないなら作る。ないなら自分でやればいいっていう考えでした」。小学校6年生になって10人ちょっとのメンバーが集まり、ようやくチームができたが時は遅く「2,3ヶ月して卒業でした」。と懐かしそうに笑った。

地元を飛び出し、強豪校へ

本来なら地元の中学校に進学するところ「将来NBA選手になるためには、今から強いところでプレーしたい」。いろんな先生にお願いして、家から電車で1時間くらいのバスケ部が強い中学校に通っていました」。バスケットを本格的に始めて2ヶ月で、強豪校に進学。「素人ながらになんだかんだ試合には出ていました。練習もきつかったし、バスケしかしてなかったですね」。一方で「勉強はからっきし」。
だからこそ、バスケをする子供たちにちゃんと伝えたいことがある。「僕はプロバスケ選手になってしまったので、勉強して大人になってからどうなるかということは分かりません。ただ、バスケも頭を使うので、新しいことをインプットしてアウトプットするということでは勉強と同じ。例えばコーチから言われたことを頭で理解して表現する、つまりこれは勉強したことを書くことと同じですよね。だから行動としてはインプットとアウトプットの連続なんです。ただ僕は勉強してこなかったのでそれが下手で、今もまだ学んでる最中なんです。バスケットをうまくなりたければ、インプットしてアウトプットする練習、勉強もしたほうがいい。僕は勉強をしていなかったから、難しかったですね」。

厳しいのは当たり前、軍隊のような部活で育つ

高校は推薦で札幌光星高へ進学。「昔の軍隊のよう、とにかく厳しかった」。それでも愛を持った指導をしてくれたコーチのことを嫌いにはならなかった。「自分のことを考えてくれていました。未だにその人のことは大好きで応援もしてくれています。何かあったら連絡もくれます」。当時のポジションはセンター。今のように外からのシュートを打つことはなかった。「個人的にはシュートやドリブルの練習はしていました。将来NBAに行くことを考えたら外のシュートは絶対必要になります。監督はチームを勝たせることが仕事だけど、選手はチームを勝たせることプラス自分のなりたい自分になるための足りない部分を自主練で補うことが仕事だと思うので、そこは自主練で補っていました」。NBAに行くという目標に向かって何が必要か、常に考えながら生活していた。

海外へ飛び出すも、アルバイトに明け暮れる日々

高校卒業後は海外に行こうか考えていた輪島。その時、たまたま教官室に行きある学校のパンフレットに釘付けになる「南イリノイ大学新潟校。先生は全員外国人で、生徒はアメリカに行ってプレーしたい選手ばっかり集まっていたんです。これだ!と思って即行で電話して、即行で資料請求して、入学するって決めました」。生徒はみんな同じ目的のもとで集まっていたため、中途半端なメンバーはいない。普段は英語の勉強をして、バスケに励む生活が始まった。しかし、その学校がなくなるというアクシデントにみまわれ、ついに海外行きを決意。フロリダの大学を見つけて、単身飛び込んだ。「向こうに行ったら入れるとばかり思っていたら、トライアウトがあったんですよ。結局入れなくて。それでも1年目はチームに関わりたくてマネージャーをやりました。毎日洗濯とかアウェーにいった時もビデオを撮ってましたね」。2年目には選手としてチームに合流した。「結構強くて、フロリダでも3位になりましたね」。チームは順調だった。だが輪島は家族の事情があり、急に日本に帰らなくてはならなくなる。
「でもお金がなかったんです。まず日本に帰るお金がなくて飛行場にすら行けなかった。だから自分の持っているポロシャツを友達に売って20ドルもらって、その20ドルを持ってスーパーでバケツとスポンジと洗剤を買って、いろんな家を訪問して洗車させてくれって言いました。5ドルとかでいいからって。日本食レストランでもアルバイトして、お金を必死に稼ぎましたね」。その期間、バスケットにはまったく触れなかった。「生きなきゃ」。4,5カ月かけてなんとか日本に帰ってくることができた。「ないなら作れ」。小学生のときにバスケットボールチームを自分で作ったときと、考えは同じだった。


 

念願のアメリカでの生活、しかし…。

日本に帰ってからもプロになる為にアルバイトを4つ掛け持ち。朝から深夜まで働く生活を3ヶ月間続けた。「電車の中以外寝てないですね(笑)」。そのとき、たまたまアップルスポーツカレッジの先生が輪島を見出し、特待生として入学が決まった。在学して2年目、アメリカに再びチャレンジしようと決意した輪島は、アメリカの独立リーグのチームに200通以上手紙を送り、返事が返ってきたチームのトライアウト受けるため、アメリカへ飛んだ。「1個くらい受かるだろうって思ってたんですよ。そしたら1個目のアトランタのチームで合格になって。その時は元NBAの選手や強い選手がいっぱいいたんですが、合格発表前に1人だけ呼ばれて『お前がいるチームが全部勝ってることに気づいてるか?おめでとう。お前とは契約する』って言われたんです。めちゃめちゃ嬉しかったですね。受ける予定だった残りのトライアウトはすべてキャンセル。ようやくNBAに向けてアメリカでのプロ生活が始まるはずだった。「その後ビザの関係で帰国して、もう1回向こうに行ったら今度そのチームがなくなっていたんですよ。独立リーグだから個人で運営していて、金銭的にきつくなったら辞めちゃうんです。日本に帰った時に新聞で取り上げてもらったり、みんなに頑張れって言われていたのにどうしようと思って。自分の夢も崩れました」。しかしあきらめなかった。その時期にシーズン中のチームすべてに手紙を送り、返信が来たチームで一番近かったところに向かった。「トライアウトはできないからとりあえず試合に来てくれって言われて。その試合の場所が歩いて6時間だったんです。お金なかったから歩いて、6時間かけて行ったら、その話を聞いた監督がやべえやつだって騒ぎだして(笑)。僕のこと日本人だと知らなくて、イリヤって名前の響きでロシア人かと思ってたみたいで、日本人だったから本当は断るつもりだったらしいんです。でもその根性が認められて、練習に混ぜてもらえました。そこからはスタメンでも出場して、リーグの決勝まで行ったり、スリーポイントも1試合に11本の記録も持っていました」。

日本でプロへ

夢見た生活が始まったはずだったが、再び日本に戻ることに。「ホームシックにもなってしまって1回戻ろうと(笑)」。怪我もあり、リハビリをしながら1年を過ごすことになる。その後、栃木のD-RISEに入団、日本でのプロ選手生活がスタートした。始めは海外とのギャップに苦戦した。「日本人はチームみんなでやろうという感じ。アメリカの独立リーグでやっている人たちは、NBAに行きたい人ばっかりで個人プレーが多いんです」。日本のバスケットに慣れてきたときに、山形へ移籍する。栃木、山形では教えることの楽しさに目覚める。「栃木ではスクール活動が盛んだったんですが、山形ではなくて、自分でスクール団体を立ち上げました。最初は2人から始まって口コミで広まって、最後は生徒が80人以上いました。そういうのがすごく好きで、未だに試合も見に来てくれます。嬉しいですよね。その子たちが頑張ってくれたら僕も誇りに思うし、その子たちがだらしないことしたら親御さんや先生とか僕が恥をかく。僕も同じように頑張ったら彼らは誇りに思うし、僕が中途半端なことすると『あの人の教え子だもんね』って言われる。彼らのためにも中途半端なことはしないです」。ファンとの熱い絆は健在だ。 その後移籍した福島、新潟でもファンの方々に恵まれた。「みんな熱くて温かい。1回受けいれてくれて、仲間だと思ってくれたら、離れてもずっと守ってくれます。いまだにその時からのファンの人たちも見に来てくれます。そういうチームに巡り会えたことが僕の財産でもあります」。


 

チームのために。

現在の東京Zではシューターとしてプレーしている。プレータイムはなかなかもらえていないが、「出た時の数分で結果を残さなきゃいけない」。だから「ベンチに居る時もずっとアップしています。自分の役割としては、コートに出たら周りにエネルギーを与えること。正確にシュートを決めることだと思っています」。輪島のスリーポイントの成功率は40パーセントを上回る。「出たからにはチームのために何か残します。それがどんなに短い間だったとしても」。 ベンチにいる時も、気持ちは変わらない。「ベンチで盛り上げることは意識しています。もちろん試合に出られないのは悔しいです。悔しくないような顔はしていますけど(笑)。チームを鼓舞することは僕なりの感謝の気持ちの表現だし、自分を保つための技術でもあるんです。今ようやくコントロールする術を覚えてきたかな」。隠れたマイナスな気持ちは絶対にコート上では出さない。それがプロとしての輪島の覚悟だった。「今年は特にそういうのは意識していました。斎藤SDや東頭ACも気にかけてくれています。だからちゃんと返したいんです。僕に頑張って教えてくれた人に恩返しできないのは嫌なんです」。そして練習でも声は誰よりも出すようにしてる。「チームが勝つために自分ができる最大の努力で貢献しようと思ったんですよね」。


そんな輪島の原動力は「悔しさと憤り」。毎日悔しいと思う気持ちと、上に行きたいという向上心が輪島を強くする。「上手くなりたい。もっと上手くなりたい、それだけです。そしてNBAにたどり着けない自分への苛立ちや、自分がたどり着きたい場所があるのに進みきれていない自分への憤りですね。だからこそ、声を出すとか表情は出さないとか、そこに行くために自分をコントロールしています。目先のことだけ考えたら表情に出していいんですよね。でも試合に出てない中で成長できることはなんだろうって考えたらそこに繋がったんです」。
そして、輪島にはそれを支える大勢のファンがいる。「ファンの皆さんは、僕が倒れそうになるのを後ろで支えてくれる人達です。直接的に何か言ってくれた訳じゃないけれど、『輪島射矢という人間を見に来てよかった』と言ってもらいたいから、自分を律する理由ができました。それがなかったら崩れてたし腐ってたましたね。プロとしてチームが求めてくれてるから、そこにも恩返ししたいと思っています。それに向かう僕が後ろに倒れないための1番の受け皿として、ファンの人達がいるんです。ファンの人達に恥をかかせたくない。輪島射矢のファンというのが誇りだって思ってもらいたいです。僕が僕で、輪島射矢としていれるのはファンの人達のおかげなので、僕を僕でいさせてくれてありがとう」。 ファン、教え子、家族、すべての人のために、輪島はさらなる高みを目指し続ける。