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小原良公「兄を追う泣き虫少年が叶えた夢」

 小さいころからやんちゃでお兄ちゃん子。兄を追いかけながらバスケットをしてきた小原良公選手。加えて泣き虫で、試合に負けては泣いていた少年が夢を叶え、東京Zで新しいスキルを身に着けて開花を目指す。

兄の背中を追い、バスケットボールと出会う

 二人兄弟の弟として高知県で育った小原。小さい頃は「先生によく怒られているような子でした。めちゃめちゃ悪ではないし、喧嘩もしないけれど、やんちゃ。先生の言うこと聞かなかったですね。

 でも泣き虫でした(笑)。すぐ泣いてました。先生に怒られて泣くこともありましたし、自分が気に入らなかったらわざと泣いて、先生が『じゃあその通りにしてあげよう』、って。泣いたらどうにでもなるんだってなって思ってました(笑)。あざとい泣き虫ですね」。

 そんな時、三つ上の兄が「バスケットボールクラブに行ってくる」と言い出したのをきっかけに、小原もその後をついていくようになった。

 「当時小学校1年生だったんですけど、ずっとお兄ちゃんと一緒にいて仲が良かったんです。お兄ちゃんについて行って、一緒に遊びたいじゃないですか。その流れで自分もミニバスのクラブに入りました」。兄のことが大好きだった小原は、流されるようにバスケを始めた。

 「楽しいとか、好きとか嫌いとかもなく、ただお兄ちゃんについていくだけでしたね」。

 1年生のころは練習にも合流せず、隣のコートで遊んでいた小原が初めて公式戦に出たのは、小学校3年生の頃だった。転機はその頃。高知県の選抜に選ばれ、練習会に参加した時だ。何となく連れていかれて、初めて参加した県の練習会。周りのメンバーのプレーや身体能力の高さに圧倒された。「みんなめちゃめちゃ上手で。俺なんか足も速くないしジャンプ力もない。他の選手は運動神経いい子がいっぱい集まっていて衝撃を受けましたね。ショックでした。みんな足が早くて、俺が前を走っているのに追いつかれて追い抜かれて。思い返すとその時は結構キツかったですね」。

 周りのレベルの高さに鼓舞された小原は、その後の練習に今まで以上に真面目に取り組んだ。「高学年になるに連れて、差がなくなってきたように感じていました。それは真面目に練習をした結果がついてきたんだと思います」。それからは高知県選抜の常連になっていた。


 

悔し泣き

 中学校は隣の市へ、自転車で通った。「ジュニアオールスター選抜の先生がいて、新しいことをいろいろ教えてくれました。その先生も現役だったので一緒にプレーしてくれていました」。バスケットをきっかけにやんちゃ坊主から卒業したようだったが、泣き虫は変わらなかった。

 「中学校でも泣いていましたね。悔しかったときや、恥ずかしくても泣いていました。1年生のときに3年生に試合でボコボコに負けたんですけど、相手が細身のすごく大きい選手で、自分も割と大きかったからマッチアップしたんです。でもセンターだからやたら面を張ってきて、相手の細身の体の肘が当たって痛いし、やられたい放題やられて、最後の方は泣きながら試合してましたね(笑)。本当に悔しくて。でも絶対上手くなってやるって思いました」。

 悔しさから、めきめきバスケットの腕を上げていった小原は、ジュニアオールスターにも選ばれるようになった。小学校の時、上手だったと圧倒された選手たちに追いつき、追い越すような選手に成長した。「中学の練習はきつかったけど、それ以上に楽しかったです」。また、プレーがうまくなると同時に身長も、入学の時の165センチから、卒業するときには182センチまで伸び、プレーの幅も広がっていった。
 

無名の選手が残した功績

 高校は兄が通っていた高知工業高へ。憧れの先輩がいたこともあって、入学を決めた。しかし、高校時代はずっと高知県で2位。四国大会に出ることはあったが、愛媛や香川の優勝校に勝ったものの、同じ高知県内の明徳義塾高に敗れて結局準優勝という結果に終わっていた。「明徳義塾高には1回も勝てなかったんです」。そのため全国大会を経験したのは高校3年次の秋田国体のみ。

 しかしその秋田国体が「一番の思い出」と語る。「ずっと全国大会に出れなかった僕が唯一出た全国です。結構勝ち上がって、個人的には自信をもらいました」。憧れの全国大会で爪痕を残した。「結構活躍したと思います。明徳義塾高のセネガル人頼りだったんですけど、その選手ばっかりがスカウティングされていて。周りも俺のことを知らないから、『こいつ誰だ』って。自分とセネガル人で70点近く取っていましたね」。

 全国に出たことがない小原の、初めて出た全国大会での思い出だ。雑誌で見たことのある選手たちと対戦し、対等に戦えたことは、小原の自信につながった。
 

悔し泣きが嬉し泣きへ

 その後の大学進学も「兄がいたから」と、大東文化大に入学する。入学当初は、大濠高や市立船橋高、北陸高などといった強豪校出身の選手に圧倒された。「自分は無名で、高知県から出てきて、試合でも他の大学の友達がいない。すごく孤独感や疎外感を一人で感じていました」。

 それでも1年次のときの新人戦で活躍を残す。新人戦は毎年夏に行われる、1年生と2年生のみで出場する大会だ。「1年のときからフィーバーしました(笑)。でも頑張れたのはお兄ちゃんのおかげだと思うんです」。当時、入学した1年生は全員上位クラスのAチームに所属し、練習を行っていた。その後の夏合宿が終わる時期にAチームのままか、下部のBチームに分けられるという仕組みになっていた。

 「兄に『一度Bチームに落ちたらずっとBチームだから、意地でもAチームに残れ』って言われたから頑張ろうって思えました。そのおかげでAチームに4年間所属することができましたね。自分が1年生の時に4年生に兄がいてとてもよかったです」。

 また小原にとって初めての一人暮らし。「親の監視から逃れて、何時まで起きていても怒られない。そんなこと高校まではありませんでした。厳しくはないけれど、高校までは朝早く起きて、放課後も部活して帰って寝る生活。でも大学は自由!最高でしょ!」と、大学生活を笑顔で振り返る。

 しかし、序盤の戦績はなかなか振るわなかった。小原が1年次の秋のリーグ戦で2部落ちが決まる。「当時、4年生も山本エドワード(現FE名古屋)さんしか出ていなくて、ほかは1年生の僕や遠藤(裕亮・現宇都宮ブレックス)が出ていました。正直勝てる気はしなかったですね」。

 2年の夏には高知の国体予選で膝の靭帯にけがを負い、リーグ戦後半から出場したものの、チームは2部で最下位になってしまう。入れ替え戦でも負け、3部落ちかと思われたが、たまたまその年にリーグ編成があり、1部と2部それぞれ8チームから10チームまで拡大されたため、2部に残留することができた。

 そして3年次には2部優勝、入れ替え戦で法政大に勝ち、念願の1部に上がることかできた。「めちゃめちゃ嬉しかったです。自分たちが4年になって1部でプレーできるなんて」。入れ替え戦は3戦行われ、先に2勝した方が次の年に1部でプレーできる権利を得られる。

 「1戦目は大東が余裕で勝って、でも2戦目はボロ負けして、3戦目で接戦を制しました。一番思い出深い試合ですね。泣きました」。小さいころからの泣き虫は変わっていないが、悔し涙を流してばっかりだった幼少時代を経て、嬉し涙を流すようになっていた。

 4年次は1部でプレー。リーグ戦では4位という結果にも貢献した。小原は「西尾コーチに感謝しています。僕を信頼してくれていました。無名な自分でも試合に使ってくれました」と、コーチへの感謝の言葉を述べた。「ディフェンスも多少はしていましたが、それ以上にたくさんシュートを打ってました。大東には外国人もいないので、日本人の力だけで攻めないといけないというのも余計にありますね。あとは真面目なところですかね(笑)?真面目でしたよ!今も真面目だけど(笑)。昼休みの自主練はずっとしていました。それを西尾コーチが見に来たりしていましたね」。コーチとの信頼関係も、小原の努力が実を結んだ結果だ。

 プライベートでは、チームメイトとの交流も楽しんだ。「俺と遠藤は1年の時からずっと試合に出ていて仲が良かったし、バスケ部はみんな仲が良くて、部の車で銭湯に行ったりご飯食べに行ったり。遠藤と仲が悪そうって言われたこともありますが、全然そんなことはないです(笑)。俺と遠藤が副キャプテンで好きなようにやっていて、むしろキャプテンが大変そうでしたね(笑)」。



 

バスケを求め、1人で歩き出す

 卒業後も兄の後を追って関東実業団の葵企業に加入する。「就活もしていなくて、兄がいるからっていう理由で何も考えずに決めました」。

 しかし、バスケットが予想以上にできない環境にもどかしさを感じるようになった。「練習が週に1回くらいで、あとは仕事をしていました。ずっとフォークリフトを運転していましたね。土日休みのところで練習する生活でした。バスケができなくて物足りなかったです」。

 兄の背中を追ってバスケットを続けてきた小原だったが、ここで新しくプロバスケットボール選手という環境に、一人で飛び込む決心をする。「兄がいたからこれまで正直楽でした。自分のことを周りが最初から認知してくれていました。でもそれがなくなるわけで、新しく人間関係も一から作っていかなければいけません。兄が作ってきた道を後ろから歩いてきましたが、自分の道を歩きたいなと思って、プロになる決心がつきました」。

 履歴書を書き、自身の戦績をまとめて、自分のプレー動画を自ら作り、プロ球団の事務所に持って行くことから始めた。そんな活動を続けていた時、当時bjリーグ所属のライジング福岡のヘッドコーチに気に入られ、トライアウトを受けることになり、何とか結果をつかみ取った。

 Bリーグ初年度のリーグ編成の際に、福岡のB3所属が決まり、岩手ビックブルズへ移籍することになる。Bリーグになったことで、変化も感じていた。「bjリーグよりも盛り上がっていると思うし、人の数もメディアの取り上げ方も試合数も増えました。また、1部と2部で分かれたので、上に行くという明確な目標ができましたね」。岩手では点を取ることに加えてディフェンスもさぼらない、マルチプレイヤーに成長した。

 しかし、チームはなかなか勝てず、苦しい2年間を過ごす。「負け癖ってあるんだなって実感しました。めちゃめちゃ連敗して、外国人選手も怪我でいなくなって、試合のモチベーションがなくなるんです。でも毎回『今回こそは』って思っていました。外国人選手が戻ってきて連敗ストップできたときはうれしかったですね」。

 2年間の岩手生活は、「一回はみんなに住んで欲しい」と語るほどお気に入りだった。「雪はすごかったけど、ファンはいい人ばっかりで暖かい。盛岡冷麺もおいしいです。あとは駅前に盛楼閣っていう焼肉屋があって、行きつけでしたね(笑)」。

 地元も近く、仲の良い選手に誘われたこともあって愛媛オレンジバイキングスへ移籍する。「地元が近いので家族はよく来てくれました。チームにも何でも言い合える仲の良い選手やマネージャーがいたので、とてもやりやすかったです」。

 愛媛は走るバスケ。「とにかく前に走る。速攻で走る。ディフェンスよりとにかくオフェンスでした。でもそういうバスケも楽しかったです」。走るバスケットを身に着け、次は東京Zの門をたたいた。


 

新しい自分を求め、東京Zへ

 入団の決め手は「PGにチャレンジできるから」。シーズン前から東頭HCの下でPGとしてのスキルを学んでいた。

 「柏倉(哲平)が怪我から復帰して、ガードのポジションをやることは少なくなりました。でもいつ何が起こるかわからないので、今のポジションをやりながら、常に準備はしています」。PGを始めたころ、ボール運びは小原にとってネガティブな要素になっていた。PGとしては身長の高い小原がドリブルをつくと、他のPGの選手に比べても高い位置になってしまい、相手に狙われやすい。しかし、試合をやるにつれて徐々に慣れてきた。「自分が大きくて相手が小さいので、安易にドリブルは付かないようにしています。でも身長がある分、体を使って押し込んだりできるかなと」。まだまだ伸び代が見込める。

 始まったばかりの今シーズンを一度振り返る。「順風満帆ではないけど、ここでしかできないことをできていると思っています。小さい頃から試合に出ていたんですけど、ここに来てからたくさん試合に出れているわけではありません。今までのバスケット人生で出ていない人の気持ちを考えるということはありませんでした。良い経験になっています」と、苦い経験も自分の糧にするつもりだ。

 加えて準備することの大切さを学んだ。「いろいろ新しいことは身についていると思うので、あとはコートで出すこと。コートでいかに出せるか。出せていないこともあるのでしっかり準備して、長いリーグ戦に備えていきたいです」。小原の成長が、東京Zが勝ち進むための鍵となる。

 兄の背中を追ってバスケットを始めた泣き虫な少年はもういない。「兄は引退して、サラリーマンとして働いています。今でも月に1回くらいは会いますね。反抗期のときは喧嘩もすごくしていて、いまだにその傷跡は残っていますが、ずっと仲良しです」。兄がきっかけをくれたバスケットボール選手という道を、これからも小原自身で切り拓いていく。

 



12月5日6日は、昨シーズン小原選手が在籍していた愛媛オレンジバイキングスと対戦します!
戦友たちに、一味違う姿を見せつけましょう!
会場でのご声援よろしくお願い致します。