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佐藤正成「足る事を知って 及ばぬ事を思うな」

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足る事を知って 及ばぬ事を思うな

「正成」というの名前は、鎌倉時代の武将「楠木正成(くすのきまさしげ)」から名付けられた。
楠木正成は当時の武士や戦の価値観・常識にとらわれない戦法を用いて、数百の軍勢で鎌倉幕府の大軍勢と対等以上に渡り合い、劣勢に追い込まれた中でも最期まで主君に忠義を尽くした知将として知られる。
(皇居の外苑前には、馬に乗って翔ける楠木正成像が置かれている。)


バスケをはじめたきっかけは姉の存在

佐藤がバスケットボールを始めたのは、小学3年のとき。

きっかけは、2つ年上で現在も実業団でプレーしている姉の影響だった。
「お姉ちゃんがやってたものは何でも自分もやりたいと思って始めたんだと思います」という、いかにも子どもらしい動機で、小学校のスポーツ少年団に入る。

スポーツ少年団はミニバスチームではなく、バスケをやるのは週に1回。レスリングをする曜日や、毎週違ったことをやる曜日などが決まっていて、いわゆる子どもの健康作り的なチームだった。当時から長身で(小6で177cm)技術もチーム内では抜きん出ていた佐藤だったが、大会では1回戦負けがいつものパターンで、試合を勝ち上がると県大会に出場できることすら知らなかった。

小学6年生のとき、中学のバスケットボール部コーチから誘いを受ける。
長身だった佐藤の存在を、女子バスケ部に所属していた姉からコーチが聞き、声をかけたのだ。

誘われるままに入学すると、1年時からスタートに。全国レベルのミニバスチームを持つ他の小学校が同じ中学に進学して来たこともあり、中学時代は山形県のベスト4へ進出。惜しくも東北ブロック大会への切符は逃すものの、佐藤は中学のJr.オールスター(中学の県選抜チーム)のキャプテンを務めるなど、県内でも指折りの選手へと成長を遂げた。

しかし佐藤は「中学の時のことはあまり覚えていないですね・・・高校が凄まじすぎて」と苦笑いを浮かべる。

Jr.オールスターの時に、県内のバスケの強豪高校の一つである山形南高校と合同練習を行っていた佐藤は、山形南高校の”男子校独特のカッコ良さ”に魅かれていた。
中学のバスケ部に誘ってくれたコーチの勧めや、同じJr.オールスターのメンバーも進学することもあり、山形南高校へと進学する。

ところが・・・

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高校時代に待ち受けていたもの

高校時代を一言で表すと?の質問に、佐藤は「まぁ・・・”地獄”でしたね」と急に声を小さくし、つぶやくように言葉を発した。

試合に負けたらそのまま学校に戻って練習。練習の内容も、普通の高校の部活では想像もつかないほどの厳しさ。佐藤の同級生も徐々に減っていった。3年間、まさに”スパルタ”を地でいく練習の日々が続いた。
時代錯誤という声も出てきそうだが、結果として夏のインターハイ出場は2年時の1回だけだったが、冬のウインターカップには3年連続で出場を果たし、年間を通してチーム力が伸びていることを証明してきた。

そんなチームにあって、佐藤はさらに能力を開花させていく。
高校でも入学後すぐにスタートに定着した佐藤は、外角もこなせるインサイドプレーヤーとして名実共にチームの支柱となり、2年時・3年時のウィンターカップ予選決勝ではどちらも45得点をあげる活躍を見せる。
2年時のウインターカップでは、現在チームメイトである伊良部勝志の所属する小禄高校と対戦。試合は6点差で小禄高校が勝利したが、佐藤は30得点9リバウンドの活躍。伊良部は当時の佐藤を「とても同学年の選手だとは思えなかった」と振り返る。

全国大会で県外のチームと対戦し、高校で初めて「全国レベル」を味わった佐藤。通用する部分を感じ自身にもなったが、エンデバー(将来性のある選手の育成プログラム)東北ブロックの合宿などでは”上には上がいる”ことを知った。
「身体能力はけっこうあるほうだと自負していたんですが、エンデバーの体力測定では自分より全然凄い選手が何人もいましたね。思い知らされた気分でした。」

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自分の役割を全うし続けた大学バスケ

厳しい練習を乗り越えてさらに成長した佐藤が選んだのは、東海大学だった。

「将来、学校の先生になりたいと思っていたから、体育学部のある学校が良かったんです。東海大のバスケ部は強かったしチャレンジしたくて、先輩の山科さん(山科朋史氏:現東芝ブレイブサンダース神奈川マネージャー)に相談して自分の試合映像をDVDに焼いて送りました。」
佐藤は東海大学バスケットボール部の陸川監督に自らをプレゼンした。結果、陸川監督に能力や想いを評価され、入学を果たすことができた。

東海大学のバスケ部に入った佐藤は、高校のエンデバー合宿の時以上の衝撃を受ける。
「先輩たちはフィジカルも強いし、能力もハンパないって思いました。同期の大貴(田中大貴:現トヨタ自動車アルバルク東京)とかも『なんだこいつは!?』って感じでした。」

全国の優秀な選手が集まるチームで、佐藤は下級生の2年間、ほとんどプレータイムがもらえなかった。
中学も高校も入学後すぐスタートで試合に出ていた佐藤にとって、プレータイムが得られない期間はバスケを始めたとき以来の経験だった。
しかし佐藤は「落ち込んだりとか腐ったりとか、そういうのは全然なかったですね。試合に出ているメンバーと自分の差は自分自身が一番分かっていましたし。高校までは体力と根性でやってたようなものだったので、今自分に必要なことをやり続けようと思っていました。」と語る。試合に出れずモチベーションが下がってもおかしくない状況の中で、”今自分がなすべきこと”をしっかりと見据え、そこに取り組み続けた。

高校時代の厳しい日々で培われた体力と根性に、バスケ理論と技術・戦術が上乗せされていき、3年時からは徐々にプレータイムをもらえるようになる。控えの選手として途中出場し、3分ほどの出場でベンチに戻るということも少なくはなかった。そこでも「与えられた時間で、自分のやるべきことをやるだけ」と取り組み続けた。その結果、春のトーナメント、秋のリーグでも勝てなかった青山学院大をインカレの決勝で破り、学生日本一の栄冠を獲得。さらに、4年時にもインカレ優勝し、2連覇を達成した。佐藤のプレーはスコアとして際立つものではなかったが、堅実にチームを支えた彼の活躍がチームを支えとなったことは言うまでもない。

大学最後の試合となったオールジャパンでの東芝ブレイブサンダース戦では、6分間の出場で4得点4リバウンドとスコアでも結果を残した。
「前半調子良かったんで、『これは後半も出番あるな』と思ってたんですが、後半は呼ばれませんでしたね(笑)。でも後半出てたらどうなったか分からないし、個人的に良いプレーで締めくくれて良かったなって気持ちもあります」

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夢を見据えてプロチームへ

そんな佐藤が次のチャレンジの舞台として選んだのが、アースフレンズ東京Zだ。
「大学を選んだ理由もそうですけど、将来教員になりたいと思っているので、そのためには実業団や企業のチームではなくプロチームのほうがいいと考えていました。アースフレンズ東京Zは選手がスクールのコーチをする仕組みがあって、将来指導者になる時に役立つことを沢山学べると思いました。チームの目指すビジョンも面白いと感じて、このチームでプレーしたいと思いました。まずはチーム内で自分のポジションを確立し、ファンが喜んでくれるようなプレーが出来るようになりたいです。今期目指すは新人王です!」

『足る事を知って 及ばぬ事を思うな』とは、楠木正成が残した明言のひとつ。
足りてない部分よりも足りてる部分に目を向けろということ。
どうにもならない事で、あれこれ悩んでも解決はしない。
今出来る最大限の事を継続させてこそ、先の道も開かれていくということだ。

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