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大野恭介「バスケができる喜びと 母との約束を胸に」

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小学校時代からチームのエースとして活躍していた大野だったが、中学の時に母を病気で亡くしてしまう。母との最後の約束、そして大学時に2年間バスケができなかった経験が、大野のバスケへの思いを人一倍強いものにしていった。


両親の勧めでバスケを始める

東京都昭島市生まれ。幼稚園の時は、暇さえあればテレビゲームをやっているほど、ゲーム好きな子供だった。人一倍幅の大きいぽっちゃり体型だったが、幼稚園の運動会では大きな体をゆらしながらかけっこの先頭を走っていた。

大野がバスケを始めたのは、小学1年生の冬から。きっかけは、本人の意思・・・ではなく、当時マンガ『スラムダンク』に夢中になっていた両親の勧めから。ゲームと同じくらい運動は好きだった大野にとって、バスケの練習は楽しかった。そして、バスケにのめり込んでいくにつれて、体型はみるみるスリムに変わっていった。


チームの絶対的エースに

休日も親や弟らと一緒にバスケをして、楽しみながら上達していった大野は、次第に能力が開花していき、4年生の時から主力として活躍。6年生の時には、ボール運びからフィニッシュのシュートまでほとんど全て1人でこなす、完全な大野のワンマンチームと化していた。夏の大会ではいつも地区大会止まりだったチームを、東京都ベスト4にまで勝ち上がらせた。

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早すぎる母との別れ

中学でも大野は1年生からスタメンとして試合に出場し、東京都のJr.オールスター(中学選抜チーム)にも1年生ながら選ばれ、主力として活躍をみせた。2年になると、同じくJr.オールスターに選ばれていた同級生と2人で、毎試合チームの約8割の得点をあげるようになり、都内でも注目されるチームになっていった。

そんな2年の秋、大野の母親に病気が見つかった。末期の癌で、すでに手の施しようのない状況だった。母を元気づけるため、大野はさらにバスケに没頭した。2年連続でJr.オールスターにも選ばれた。大野の活躍に応えるように、母は医師に宣告された余命を超えて生き続けた。

3年の夏の地区大会決勝戦。大野の母が見た最後の試合となった。だが、普段通りであれば当然のように勝てる相手に苦戦し、試合には何とか勝ったものの、大野もチームも全く良い試合ができなかった。母に良い試合を見せられなかった大野は、この試合を悔やんだ。

試合の数日後、大野は病院を見舞った。母の死期が迫っていた。今際の際に、母は大野に伝えた。
「私がいなくなっても、バスケをがんばりなさい」
その少しあと、大野の母は静かに息を引き取った。


母の言葉を胸に試合へ

チームは都大会を1週間前に控えていたが、大野は母の葬儀などで練習には全く参加していなかった。心痛を察した監督からは、「試合にも来なくても大丈夫だから」と言われていた。

そして都大会初日。チームの中に大野はいた。母が残してくれた言葉を胸に、大野はコートに帰ってきたのだった。ベンチには母の遺影が置かれていた。大会前にまったく練習に出れていなかった大野のコンディションは、好調にはほど遠かったが、毎試合30点前後のスコアをたたき出し、圧倒的な存在感を示しながら勝ち進んでいった。初めて進出した決勝では第3ピリオドを終えて8点のビハインドを負っていたが、大野の連続3ポイントで一気に点差を縮めると、その勢いのまま逆転しタイムアップ。初の東京都大会優勝、そして開催地枠として全国大会出場を決めた。

初めて出場した全国大会ではベスト8進出を達成。大野は得点アベレージで大会4位の成績を残した。

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仲間との出会い

引退後、都内のいくつかの高校から声がかかった。その中で大野が選んだのは、最も熱心に誘いの声をかけてくれた東海大菅生高校だった。同級生には、現在のチームメイトである佐々木隼がいた。そして、2年時には後輩に高山師門が入学してきた。

東海大菅生高校のプレースタイルは、とにかく走って得点を取りまくる、ハイスコアゲームが主体のスタイル。大野は1年の冬からスタメンで試合に出場していた。大野は中学までのようにチームのエースではなかったが、能力の高い仲間とともに成長を遂げ。3年時には初のインターハイ出場権を獲得。インターハイでは2回戦で敗れたものの、全国初勝利を掴んだ。この年、ウインターカップにも出場すると、全国ベスト8まで勝ち上がった。


バスケができなくなった日

高校卒業後、大学バスケ界の名門、日本体育大学(以下 日体大)へ進学。しかし大野が入学した年、日体大は創部以来初めて関東2部リーグ降格の憂き目に遭う。大野自身もフィジカル(体の当たり)の違いや、チームが求めるプレーに悩み、持ち味を発揮できずにいた。

大野が3年生になる年、日体大バスケットボール部のOBでトップリーグの三菱電機でヘッドコーチを務めていた藤田将弘氏が指揮を取ることが決定。チームも再起にかけて気持ちが高まっていた。大野も「ここから」という気持ちでいた。

ところが、新年度が始まったばかりの4月下旬、学校へ登校中だった大野を、突然胸の苦しみが襲った。何とかチームメイトに連絡を取り、救急車で病院へ搬送。幸い病院で苦しみは治まり、命に別状はなかった。しかし、動悸の原因は分からず、再発の可能性があるという理由で、バスケをすることにはドクターストップがかけられた。

その後、何度も検査や診察を受け薬も飲んだが、状況が変わることは無かった。いつになったらプレーできるのか分からない、そもそもプレーできるようになるのかも分からない。そんな状況の中で、大野のバスケへの思いは打ちひしがれていた。練習には来るように言われていたが「バスケができないのに、見学して何の意味があるんだ」という気持ちだった。


バスケへの想いをコーチとして昇華

そんな3年生の1年が終わるある日、藤田監督から呼ばれ「コーチになってもらいたい」と依頼された。
将来指導者を目指していたわけではなかったが、母との約束を守るために腐っていた自分を変えなければならないという思いから、引き受けることにした。そして、このことが大野自身も想像できないほどに、気持ちを吹っ切らせるきっかけとなった。

バスケができない悶々とした気持ちをコーチとしての仕事に昇華させ、自分にできることを精一杯やろうとした。
そんな大野の熱意がチームにも伝わったのか、日体大は14勝4敗で関東2部リーグ優勝。入れ替え戦でも勝利し、3年ぶりに1部昇格を果たした。

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再びバスケができる喜びを感じて

大学4年の終わりごろ、大野に声をかけたのがアースフレンズ代表の山野勝行だった。大野が大学時代、SNSに投稿していたバスケへの想いを山野が読んで感動し、「プレーできる場所がないならうちに来ないか」と声をかけたのだった。

「アマチュア日本一」を目指していたとはいえ、クラブチーム”アースフレンズ バリバリチーム”は当時県大会2回戦止まりのチームだった。それでも、大野は「再びプレーができるなら」と、チームに加入することを決めた。

そして、大学卒業後はアースフレンズでスクールのコーチをしながら、バリバリチームの選手としてプレーをする日々がスタートした。メンバーの少ない社会人チームで、平日夜の練習には1?2人しか来ないことも少なくなかった。それでも、とにかくバスケができるということが嬉しかった。試合では中学時代のように自由にプレーした。翌年には高校時代の後輩である高山らも加入し、チームも全国クラブ選手権ベスト16まで勝ち進んだ。


開けたプロチームへの道

チームの躍進と同時に嬉しいニュースが入った。アースフレンズの2014-2015シーズンからのNBDL参入が決まったのだ。

全国クラブ選手権が終わった数日後、プロ選手としてプレーしたい意向をチームに伝えた。そして大野は今、アースフレンズ東京Zのユニフォームを勝ち取り、チームの初代キャプテンにも任命された。

「選手の誰もが高いモチベーションを持って、手を抜いていない環境でやれていることに、感謝しています。
高校のチームメイトとまたプレーできていることも嬉しいですね。素晴らしい機会をもらったアースフレンズに、ファンに恩返しがしたいというか、還元していくことができればいいと思っています。
色々ありましたけど、一つのことをずっと続けることが大事だということを感じています。」

「バスケができる」ことの幸せを誰よりも噛み締めながら、大野はプロの舞台に立つ。

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