MENU

アースフレンズ東京Z

EARTHFRIENDS
TOKYO Z

MENU
COLUMN

COLUMN

HOME > コラム > 中村大輔「ラッキーボーイ 導かれて東京へ」

中村大輔「ラッキーボーイ 導かれて東京へ」

column6.jpg

自身のバスケ人生を「ツイてるとしかいいようがないですね」と語る中村大輔。
地元での国体開催、地元でのプロチーム誕生、そしてアースフレンズ東京Zの誕生がタイミング良く訪れ、
中村に進むべき道を示していった。


バスケ選手としての基礎を作ったラグビー

中村がバスケを始めたのは中学生のときから。
父親がクラブチームでバスケをしていてバスケには興味があったが、小学校にはミニバスチームは無く、地域のラグビー少年団に加入していた。

両親に勧められて始めてみたラグビーだったが、練習が本格化するにつれて「痛い」「怖い」「試合で勝てない」の3拍子で、ずっと辞めたいと思っていた。しかし、両親が「途中で投げ出すな」と辞めることを許してもらえず、嫌々ながら続けていた。6年生の時にはコーチが代わり、更に厳しい練習に。しかし、練習がキツくなって「痛い」「怖い」気持ちはさらに増したが、試合では徐々に勝てるようになっていくと、次第にラグビーの楽しさを感じられるようになってくる。ラグビーで培った体力や、身体接触を恐れない心の強さはその後の中村のバスケ人生の大事な基礎となった。


自己流練習でスキルを磨く

中学になると、ずっとやりたかったバスケ部に入部。
半年間はラグビーも続けていたが、両立することの難しさや、バスケ部の監督からもどちらかに絞るように言われ、ラグビーをやめてバスケ一本に絞る。バスケ部の活動は最上級生が主体で、下級生は上級生が引退するまでほとんど練習にも参加させてもらえなかった。負けず嫌いの中村は部活が終わったあと、近くの公園のバスケットゴールで一人、バスケをしていた。家にあったマイケル・ジョーダンのビデオを見て研究し、自己流で練習を続けた。この自主練習の日々で、中村はだんだんと力をつけていった。

2年生になり、上級生が引退して自分たちの代のチームになると、既にサイズも実力も同級生より抜け出していた中村はスタメンで試合に出るようになる。リバウンド、得点で活躍しチームの柱となり活躍。チームは県大会の1回戦で敗れたが、中村は神戸市の選抜チームに選ばれるなど、実力を認められるようになっていた。

column6-1.jpg


地元国体のセレクションで最終メンバーに

いくつかの高校から誘いを受けたが、中村は家から近くてバスケ部もそれほど強くない公立高校に進学。バスケ部は毎週のように練習試合を行う実践重視のチームだった。上級生が2・3年生合わせて9人しかいないチームで、中村はスタメンで試合に出場。毎試合30?40点をあげ、1年生ながらチームのエースとなっていた。

中村が高校へ入学した年、兵庫県は2年後の国体に向けて強化を行っていた。例年、国体チームは全国大会に出場するチームの選手から選ばれるが、地元開催に向けての強化として県内から有望な1年生選手100人が集められてセレクションが行われた。中村は100人のメンバーに入ると、徐々に絞られていくメンバーに残り続け、他の強豪校の選手と共に最終メンバーに残り、本大会ではスタメンで試合に出場する。兵庫県選抜チームは、満原優樹(現日立サンロッカーズ東京)、長谷川技(現東芝ブレイブサンダース神奈川)らを擁する秋田県に敗れるものの、5位入賞を果たす。

この国体での練習は、中村にとって県内の高いレベルで練習をする機会となり、さらに実力を伸ばしていった。中村が2年生時には、高校のチームを兵庫県7位まで勝ち上がらせ、近畿大会への初出場を果たした。


教員を志望して九州の体育大学へ

高校を卒業後、将来体育の教員になりたいと考えていた中村は、体育学部のある九州の強豪、鹿屋体育大学への進学した。なぜ九州の大学へ行ったかというと、国体チームのコーチが鹿屋体大のバスケ部のコーチと先輩・後輩の関係にあり、中村を紹介してくれ、鹿屋体大のコーチが中村の事を気に入ってくれたからだった。

中村は1年から主力として試合に出場していたが、2年時に新しい監督がヘッドコーチに就任すると、チームのオフェンスの中核を任され、チームの主軸を担うようになる。チームも成績を伸ばしていき、3年時のインカレ(全国大会)では関東の強豪チームを破り、7位入賞を果たす。

column6-2.jpg


予期せぬチャンスで地元プロチームの第1号選手に

大学のバスケ部引退後、選手としてのバスケ人生に区切りをつけたつもりでいた中村に、予想もしなかったニュースが入る。それは、地元の兵庫にプロバスケチームが誕生するというものだった。学校の教員になるつもりでいた中村だったが、友人の勧めや、このタイミングで地元にチームが誕生することに運命を感じ、トライアウトを受けることにした。結果、たった2人のトライアウト合格者の1人に選ばれ、地元のプロバスケチーム「兵庫ストークス」の第1号選手となった。そして、ルーキーにしてチームのキャプテンに任命された。

プロ選手としては分からないことばかりだったが、中村はとにかく目の前のことに全力で挑んだ。
キャプテンとしてチームをまとめるため、仲間と積極的にコミュニケーションを取っていった。英語は全く話せなかったが、外国人選手にも自分から話しかけ、気がつけば英語で会話ができるレベルにまで上達していた。プレーの面でも主力として活躍していた。

2部リーグのJBL2でスタートした兵庫ストークスも、3年目にはトップリーグNBLへ昇格。しかし、昇格とともに新しいヘッドコーチが就任すると、昨年までとほとんど変わらないメンバー編成にもかかわらず、中村の試合出場時間は激減した。1秒もコートに立つことのない試合も少なくなかった。
学生時代から常にチームの主戦力として試合に出てきた中村にとって、ほとんど試合に出られないシーズンはつらい日々だった。さらに、チームも公式戦25連敗を喫するなど、昇格初年度は苦しいシーズンとなった。

column6-3.jpg


新たな挑戦の舞台へ

中村はプレータイムを求めた。そして、新たな刺激を求めていた。
そんな折、東京に新しいプロチームができるとことを知った。そのチームこそアースフレンズ東京Zだった。初めての交渉に向かう中村の心の中には、既にこのチームでプレーしようという決意があったという。「自分がこれから先、別のチームでのプレーを考え始めていた時に、新しいプロチームができるということを聞いて、”行くしかないっしょ”って気持ちでした。」と、当時の気持ちを語る。
実際に東京に来てチームを知った中村はチームやホームタウンの街について知っていく中で、自分の決意が間違いではなかったいうことを確信していった。
兵庫のファンからも温かく送り出され、中村はアースフレンズ東京Zの初年度メンバーに加わった。

「まずはプレータイムを勝ち取りたいです。ボリス・ディアウ(サンアントニオ・スパーズ)みたいに試合では大事なところで点が取れて、プレーの幅が広い選手を目指します。プロとして多くのファンに試合を観に来てもらいたいし、『大輔がいるから試合を観に来る』と言ってもらえるようになりたいです。」

運命的なタイミングに導かれたかのような人生を歩む中村だが、節目に訪れたチャンスを掴むことができたのは、負けず嫌いな気持ちで常に全力で上を目指していたから。

そして、新しい舞台で中村の瞳が輝きを増していく。
プロ4年目の挑戦が始まる。

column6-4.jpg