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高山師門「挫折と負けん気を 成長の糧に」

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高校を初の全国大会出場に導き、大学でも日本一を経験。その後加入したクラブチームが1年でプロ化と、成功への道を突き進んでいるかに思える高山のバスケ人生。しかしその途中には、試合に出れない辛さ、期待に応えられないプレッシャーに挫けそうな、もう1人の高山がいた。


遊びの中で磨かれていった身体能力

幼稚園の頃から外遊びが好きだった。
高山が通っていた幼稚園は、1ヶ月間合宿をしたり、かまどを作って火を起こしたりと一風変わっていたため、外での遊びには事欠くことがなかった。そのおかげで、小学校入学時には身体能力では頭一つ抜けていて、リレーの選手にも毎年選ばれていた。

小学校時代は水泳やサッカー、ピアノなども習っていたが、どれも2年ほどしか続かなかった。高学年になってからは習い事を全て辞め、仲の良い友達とスポーツをしたり、遊びをして過ごす日々だった。そんな遊びの一つにバスケがあり、高山はバスケの楽しさにハマっていく。

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仲良し軍団とともに悔しさを晴らす

中学校に上がると、一緒に遊んでいた仲良し軍団みんなでバスケ部に入部。
遊びでバスケをしていたとはいえ、ほとんど初心者同然の一年生は練習には参加できず、ステージの上でボールハンドリングとドリブルの練習ばかり。そしてようやくレイアップシュートを練習し始めた頃に、隣町のミニバスチームと1年生で練習試合をすることになった。本格的にバスケを初めて4ヶ月ほどの中学1年生チームは、小学生たちに翻弄され負けてしまう。「あの時はホントに悔しかったです。僕たちは全員初心者だったので勝てなくてもしょうがないんですけど、そういう問題じゃないので。」と高山は当時を振り返る。それから、仲良し軍団で練習以外の日もバスケに明け暮れ、集まって遊びに行くのは決まってバスケットゴールのある場所だった。そんな日々でだんだんと上手くなっていき、小学生にも勝てなかった1年生軍団は、その年の1年生大会では市大会優勝という結果を残す。


高いレベルへの渇望

高山は上級生と一緒のチームでも少しずつ試合に出始めるが、チームの中心選手というほど飛び抜けた能力を持っていたわけではなかった。高山本人も「自分が活躍していたイメージはない」とのこと。だが、背の高さとアグレッシブなプレーが評価され、1年の終わりに東京都のJr.オールスター(中学選抜)の候補選手に選ばれる。選抜メンバー入りはならなかったものの、技術も知識も自分の中学のバスケ部とはレベルが違う選抜チームの練習は、高山にとって刺激となった。
「仲の良い仲間と楽しくバスケをするのも好きだけど、試合には負けたくない。勝ちたいから、高いレベルで求められる環境に身を置きたい」そう感じるようになっていった。
意識の高まりがさらにプレーの成長を促し、バスケ部では中心選手としてリバウンド・得点を取るようになっていた。翌年はJr.オールスターの選抜メンバー入りを果たし、初めて「全国レベル」を経験する。

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伸び伸びバスケの中で能力が開花

中学を卒業した高山は、現在のチームメイトでもある大野恭介・佐々木隼が1学年上に在籍していた東海大菅生高校に進学する。1年生の頃は、試合での出番は少なかった。高山は試合でのプレータイムを伸ばすために、自分より上手い先輩たちのプレーを見て、それぞれの長所を身につけようとした。「間合いの取り方が上手い、ステップワークが上手い、パワーのある先輩など色々いて、全部身に付ければ誰よりも上手くなれるなと(笑)。もちろん100%とはいかなかったですけど、成長できるきっかけになったと思います。」そう語る高山は、3年生が引退してからはスタメンで試合に出るようになる。監督が「佐々木と高山の2人で50点取れ」と言われ、自分の役割がはっきりとした高山は、スコアラーとして積極的にシュートを打つようになり、実際に2人で毎試合50点以上をあげた。高山が2年生の年には大野キャプテンのもと、チームが初めてインターハイ、ウインターカップに出場。高山は平均25得点をあげる活躍を見せ、得点ランキングにも名を連ねる活躍を見せた。


監督を再び全国へ

3年時にはキャプテンに就任し、昨年以上の結果を残すべく燃えていた。しかし、インターハイ予選では全国大会出場を決める最後の試合で終盤に逆転を許し、全国への切符を逃してしまう。さらに、追い打ちをかけるように予選会の後、監督が急病で倒れてしまう。高山ら3年生は病院に監督を見舞いに行くと、自分のことで精一杯のはずの監督は、後遺症でマヒが残る体で選手のことを気遣い、チームのことやそれぞれのプレーについて熱く語ってくれた。そんな監督の想いに強く感動した高山らは、「こんなに想ってくれている先生を、とにかく全国に連れて行こう!!」と、さらに強い気持ちで練習に打ち込むようになる。結果、インターハイより少ないウインターカップの出場権を獲得。ウインターカップでは2年連続で全国ベスト8まで勝ち上がった。

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最も苦しかった4年間

いくつかの大学から声のかかった高山だったが、実際に足を運んで練習にも参加し、先輩後輩の仲の良い雰囲気が高校に似ていて、情熱的な監督の下で高いレベルの練習をしている東海大学へ進学を決めた。

ここで高山は「大学の4年間は今までの人生で一番苦しかったです」と、ため息を吐くように漏らした。高校までのバスケは、自分が打てると思ったらガンガンシュートを打っていく自由なスタイルだったが、東海大は決められたチームの戦術の中で確実に得点できるチャンスを作り出していくシステムバスケ。どうやって自分の持ち味を出せば良いのか分からなくなっていった。ちゃんとしたウエイトトレーニングもしたことがなく、学ばなければいけないことだらけだった。
また、高校までは下級生の時から試合に出ていたのに、試合に出れないどころか後輩の田中大貴(現トヨタ自動車アルバルク東京)らが自分のポジションで試合に出ていることで焦燥感にもかられた。さらに、チームは他のどの大学よりも長い時間、ハードに高い意識で練習している自負があったのに、リーグ戦やインカレ(全国大会)では良い結果が残せずにいたことが、やりきれない気持ちに拍車をかけた。
「ほんとにしんどかったですね。チームも良い成績が残せなくて『これ以上何をどうやったらいいんだ』っていう感じで、挫けそうでしたね。」


仲間に支えられ、有終の美を飾る

そんな高山を支えたのは、自分の信念、そして仲間の支えだった。
「『自分で考えて決めた道なんだから、絶対に後悔はしない』という想いがあって、ここで挫けちゃだめだって自分に言い聞かせていました。同期のチームメイトともよく話をしました。みんなと話して『ここから頑張ろう』って元気をもらえました。友人・家族・コーチなど、たくさんの人に支えてもらって、ほんとに感謝してます。」

高山が4年生になった年にはチームの調子も上向き、春のトーナメント・秋のリーグ戦では準優勝。そして、インカレではそれまで3戦3敗だった青山学院大を決勝で破り、ついに全国大会優勝を成し遂げた。高山は決勝の残り時間1分から出場すると、たった1度だけ訪れたシュートチャンスで見事にシュートを沈め、この試合で最もベンチ・応援席を沸かせた。それは、悩み・苦しみながらもひたむきに努力してきた高山を知っている仲間の、心からの歓喜だった。

「最後のインカレで勝つことができて、やっと報われたと思いました。試合に出れたこと、シュートを決めたことももちろん嬉しかったですけど、チームが目指していたものを掴むことができたのが何より嬉しかったです。大学4年間は一番苦しくて大変でしたけど、その分色々なことを考えて実践したし、選手としても人間としても大きく成長できました。今になって思えば、自分にとってすごく貴重な4年間でした。」


直感を信じて無名のチームへ

大学卒業後に高山が選んだ進路は、まだ無名だったクラブチーム「アースフレンズ」だった。
「今思えばよくその道を選んだなって思います(笑)。本気でバスケがしたいっていう想いで選んだのが、クラブの県大会2回戦負けが最高成績のチームとか。大学の仲間にも『地球の友達?』って小馬鹿にされてましたし。実業団のチームからも誘いを受けて、練習に参加してみたりしましたが、何か違うなと。バスケを真剣に、本職としてやりたかったんです。学生の頃からプロになりたいっていう気持ちもありましたし、アースフレンズはただバスケをするだけじゃなくて、スクールなど自分が教えられる場もあって、社会人として学べることも多いと思って『ここじゃん!』ていう気持ちでした。根拠はなかったですけど、1年くらいでプロチームになるのかなという気はしていました」

チームは人数も少なく、環境的には大学とは比べ物にならなかったが、選手として自分がやることの軸がぶれることはなかった。試合にも主力として出場し、スクール生らファンにも応援され、チームに必要とされる存在であることがただ嬉しかった。

その年、チームは神奈川県大会優勝、オールジャパン神奈川県予選優勝、全国クラブ選手権ベスト16の成績を残した。また、アースフレンズに加入してから4ヶ月後の8月、翌シーズンからのNBDL参入・プロチーム設立が決定し、プロバスケ選手としての道が拓けた。

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「プロフェッショナル」に対する想い

そして、2014-2015シーズンからプロバスケ選手としての生活がスタート。
プロチームになる前からアースフレンズで活動していた高山には、他の選手以上にチームへの思い入れがある。
「チームはすごい勢いで成長してきたけれど、それはここまでの活動にコーチやスタッフが一生懸命に取り組んで来たから。代表の山野さんからは常々『他のバスケチームじゃなくて、日本中のエンターテイメントやサービスがライバル。ディズニーランドに勝っていかなきゃいけない。』って言われていて、そこに負けないつもりでスクールのコーチなどやってきたつもりです。ただ言われたことをやってるだけじゃ駄目だし、言われてないから分からないじゃ最高の仕事はできない。全力でやらなきゃ駄目でしょ。プロになってもその意識は失いたくないです。」

8月に行われたイベントでは、まだシーズン開幕の2ヶ月以上前であるにも関わらず、ファンが作成した高山の横断幕が掲げられていた。それは、これまでの高山のスクール生への熱心な指導や、ファンへの真摯な対応によってもたらさせれたものだろう。

生え抜き選手だからこそのチームへの思い入れ、そして試合に出られることの意味を知る高山が、その想いをコートの上で発揮するのはもうすぐだ。

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