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橘佳宏「すべてはファンのために」

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インタビュー中、常に「ファンの皆さんに喜んでもらうために」と口にしていた橘。
そこには、幼い頃から夢見ていたプロ選手としての、バスケに対する真摯な思いとどんな時でも応援をしてくれているファンへの感謝の気持ちが詰まっていた。


バスケ一家のもと

ご両親は、共に実業団でプレーをしていたバスケットボール選手。引退後にはミニバスチームのコーチを務め、バスケ一家で育った。幼稚園の頃から体育館へ連れていかれ、バスケットボールに触れる事は必然の環境。最初の頃は、幼稚園児にしては遅い時間に練習が行われるため、「眠かった」記憶が1番。

しかし、成長と共にバスケットの楽しさに魅かれ、小学2年生の頃からミニバスへ加入。4年生の頃からは、愛知県豊田市のバスケットボール教室へ通い始める。市内の有力選手が集まるそのチームでは、5年生の時に全国ミニバスケットボール大会にも出場を果たす成績を残していた。

この頃から、将来の夢は『バスケットボール選手になること』。日本リーグ(現NBL)の試合を生で見る機会が多かった橘は、コート上で躍進する選手・観客席で声援を送るファンの姿を見て、「自分も将来は、この舞台でプレーをしたい。」そう自然と将来の目標を定めていた。

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すべてはトップリーグでプレーするため

市内の中学校へ進学し、バスケ部へ入部。自身がキャプテンを務めた3年生の時には、豊田市大会で優勝を果たすが、地区大会では1回戦負け。華やかな成績は残せなかったが、将来トップリーグでプレーをするという夢のため、高校は全国大会に出場できるような強豪校に入り、大学は関東の一部の学校へ進学すると心に決め、当時ウインターカップへも常連校であった、栃木県立鹿沼東高等学校の顧問の先生との縁もあり、進学を決意。

1年生の頃からベンチ入りし、ウインターカップにも出場。全国の有力選手と初めて対戦をしてみて、「自分ならいけるかもしれない」と肌で感じていた。2年生の時には、チームの中心選手として活躍。当時ウインターカップで行われていたダンクコンテストでは優勝をし、未来のダンクマンの兆しを見せていたとか。
将来の目標に向け、順調に階段を上っていたが、高校最後のインターハイでは予選での決勝負け。ウインターカップの予選もベスト4で終了。「インターハイ予選の準決勝で怪我もしてしまって、決勝では足を引きずりながらコートにいた事を覚えています。中途半端なまま終わってしまったなと、悔しい気持ちだけが残ってしまいました。」
しかし、そんな橘に、当時関東一部に所属し、強豪校として名をとどろかせていた日本体育大学からオファーが。「もう1回大学で挑戦をして、ダメだったらバスケットの道は諦めよう。」そう心に誓い、日体大への進学を決めた。

在籍時の日体大の成績は、1・2年生の時にインカレ優勝・準優勝を果たし、3年生の頃からちゃんとしたプレータイムを勝ち取る事ができたものの、インカレでは8位。歴代の先輩方が築きあげてきた24年連続ベスト4入りの成績を止めてしまう。そして4年生になり、主力としてチームを牽引するも5位。またしてもベスト4には届かず、初めて大きい挫折感を経験する事となってしまった。
思う様な成績は残せなかった橘にトップリーグからのオファーはなく、声がかかったのが、当時日本リーグ2部(現NBDL)の大塚商会アルファーズだった。まだバスケットへの想いが強かった橘は、「選手を続ける事ができるなら、挑戦しよう。」と覚悟を決めた。


サラリーマン選手からプロ選手へ

大塚商会アルファーズでは、本業は社業。残業も頻繁にあり、チーム練習も平日2回は行われていたが、数名しか選手が集まらない状況であった。“バスケをもっとやりたいけど、できない”そんな日々が続いていた。

2年目のシーズンが終わると、大きい岐路が訪れる。
大塚商会創業者の地元である栃木県にプロチームが発足し(現リンク栃木ブレックス)、日本リーグの会員資格が譲渡される事が決定。所属選手は全員移籍リストに公示され、会社に残る選手は関東実業団でプレーする事となったのだ。幼い頃からの夢を果たせず、選手としてまだ完全燃焼していないと思った橘は、迷わず会社を辞める事を決意。

bjリーグ(現TK bjリーグ)の合同トライアウトを受け、富山グラウジーズへ入団する事となった。

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ファンのために

そこから6年間bjリーグでプレー。何の保証もない。結果を残し続けるしか生き残る道がない厳しさを感じていたが、常にバスケットの事だけを考え、バスケットと向き合う毎日はとても充実していた。

プレーをする中で、試合以外の強みも覚醒していく。それが、橘の代名詞となっている“ダンクシュート”だ。190cmと、バスケット選手としては決して大柄ではないながらも、身体能力の高さでダンクを決めていた橘は、bjリーグ在籍中、毎年オールスターゲームでのダンクコンテストに出場。周りからは、「外国人選手には絶対敵わないから、優勝は無理だよ。」と言われていたが、その言葉に奮起し、「絶対優勝してやる」と心に誓うと、“どうしたら勝てるのか”と研究を始める。

ダンクの派手さでは確かに外国人には敵わないかもしれない。考えた末に出した策は、見ている人にも楽しんでもらえるように視覚でのアピールだった。自前で夜な夜な衣装を作成。ある時は、プラスチックを切って紐で繋ぎ、布を貼りつけ、オリジナル甲冑を作成したことも。その甲斐あって、一躍全国にその名を広げる事になったのだ。
「色んな場所で、“ダンクの橘選手ですよね!”と声をかけてもらえるようになりましたね。1番印象に残っているのは、仙台89ERS時代に二連覇をしたこと。プロとしてやる以上、周りは上手い選手の集まりだから、その中で生き残れるよう“強み”を持っている事は大切だと思っているので、それを発揮する事ができてよかったです。」

また、ここまでダンクに拘るのにはもう一つ理由があった。それは、『ファンあってのプロ』と常に意識をしているからだ。ダンクコンテストという機会があったからこそ、その想いはより強くなった。応援してくれているファンのため、劣勢の試合でも、最後1回のオフェンスも一生懸命プレーをし、ルーズボールにも果敢に飛び込み、どんな状況でも戦う姿勢を見せる事を、より大切にするようになった。

しかし、ダンクコンテスト二連覇を果たした直後。
2011年3月11日。東日本大震災が発生し、当時在籍していた仙台89ERSの活動が停止。全選手が、他チームへレンタル移籍をする事となった。「初めて、バスケなんてやっていいのかと思っていました。」そう迷いを持ちながら、練習に参加。少しずつ気持ちを前向きにもっていき、試合が再開すると、仙台のファンも声援を届けてくれた。
翌シーズン、再び日本人選手は全員仙台に集まり、開幕の時には、大勢のお客さんも会場まで足を運んでくれた。その姿を見た時、プロ選手としてバスケットをやっている意味・人に元気を与えられる存在でいる事の価値を、身をもって実感した瞬間であった。「自分自身の事で大変だと思うのに、自分のために会場まで応援に来てもらえて本当に嬉しかったですね。頑張らないといけないと思う事ができました。」

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バスケット界への想い

プロ9年目。ついに、目標としていた国内トップリーグNBLへの移籍が決定。初めてコートに立ったときには、「色んな挫折がありながらも、諦めずにやってきてよかった。」と素直に感じた。しかし、ようやく辿り着いた場所で、プロの洗練を受ける事となる。2度の運営会社の経営破綻。プロチームの厳しさを感じる事となる。30代にもなりベテラン選手の域に入り、選手として、ただがむしゃらにプレーをするだけでなく、バスケット界全体についても考えるようになってきたという。
「今は、プロチームよりも企業が母体のチームの方が、環境の良い事が多いので、これを改善するには、バスケット界全体が盛り上がっていかないといけないなと常に思っていました。来季からBリーグで1つになって、プロチームの環境もどうなっていくのか。期待をしたいなと思っています。」

長くプロチームを渡り歩き、経営だけでなくチームビジョンもしっかりもっているチームに入りたいと考えていた。
「アースフレンズ東京Zは、地元に密着しながら、バスケットのスクール活動等、普及活動もしっかりやっている。経験上、そういった活動を長く、地道に続けている事がとても大事だと感じているので、将来大きくなっていくのではと魅力を感じました。カテゴリー関係なく、ここでプレーしたいと思ったので決めました。」

若い選手が中心の中で、東京Zでは上から2番目。プレーだけでなく、ベテランとして求められている事も理解しながら日々練習に励んでいる。「プロ選手として、1日1日を大切にしないといけないことを、後輩達に伝えるのも仕事だと思っています。年齢関係なく、挑戦をし続けたいですね。若者に負けないよう、毎日一生懸命練習しています。チームとして、優勝を目指します!」

すべては応援をしてくれるファンのために。後半戦に向け、常に高い場所、ダンクを狙って挑み続ける!

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