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村越圭佑「陰日向の花」

 

村越コラム

東京Zで『日本一』を知る数少ない選手であり、大型選手として期待のかかるルーキー村越。体型にも恵まれ、第一線の道を歩んできたが、そこには悩みもがいた沢山の時間があった。


きっかけは、“人数が足りなかったから”

幼い頃から、母親と何でも自分の真似っこをしていた4歳年下の妹との3人暮らし。
バスケットを始めたのは、小学校4年生から。それまでは、水泳や空手を習っていたが、ミニバスの部員募集を知ったのをきっかけにバスケットを始めた。
「母親が元々バスケットをやっていたっていう影響もありますが、小学校の帰りの会の時にミニバスの募集のお知らせが配られたんですよね。特に男子がいないという事で、“ちょっとやってみようかな”っていう、軽い気持ちで始めました。」
まずは、1ヶ月間のお試し期間だけ通おうと思っていたが、「来月からお月謝を持ってきてね。」と、言われるがまま続ける事となった。

5年生の後半頃から主力選手として活躍。周りより頭1つ身長が高かったこともあり、ゴール下の番人の役割を果たしていた。
それまで同じ学年の選手が1人もいなく、6年生の秋頃、ようやく自分と同学年で、同じくらいの身長の選手が入部。ビッグマンを2人擁する事になったチームは、それまではどの大会でも好成績を残していなかったが、冬の県大会で優勝。女子チームも勝ち上がり、チーム初!アベックで全国ミニバスケットボール大会への出場を果たすことになった。
初めての全国の舞台だったが、予選ブロックの初戦で、九州・沖縄ブロック1位の小学校と対戦し、トリプルスコアー以上の結果で敗戦してしまう。「静岡県内ではそこまでの点差で負けた事がなかったので、正直驚きました。当時、自分も168cmくらいはあったのですが、沖縄の小学校にはU-15にも選ばれていた上原大輝という選手がいて、もっと大きかったんですよね。大きくて上手かった。全国の壁の高さを経験できた大会でした。」


1人で奮闘した中学時代

監督は怖かったが、楽しくバスケットができた小学校時代。
中学校へ進学してもバスケットを続けようと決めていた村越は、県内から強い選手が集まる私立か、地元の公立中学校へ進学するかの選択を迫られていた。
「私立の監督からも声をかけてもらっていたのですが、もう1回、地元の先輩や後輩と一緒にバスケットをしたいと思ったので、公立へ進学しようと決めました。ただ、同学年でミニバスが一緒だった子は、学校の区域が変わってしまって違う中学へ進学したんですよ。なので、また1人でバスケ部に入ることになりました(笑)。」
1年生の部員が1人だったため、よくある1番下っ端の仕事は全部1人でこなしていたという。
「荷物を運んだりとか、先輩にやらしてはいけないという考えが自分の中で強くあって、授業が終わるとダッシュで部室へ行って、何往復もして荷物を運んでいましたね。先輩から“手伝うよ”って声をかけられても断っていました(笑)。途中誰か入ってくれるだろうと思っていたのですが、本当に卒業まで1人でした(笑)。」

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ライバルの出現

1年生は、Jr.オールスターの選考会には呼ばれていたが、1人で雑用をこなし、練習を繰り返すだけで終わっていった。
転換期となったのが、2年生。河合祥樹(現早稲田大学)という新入生が入部してきてからだった。
「河合は、中学生なのに高校生のような体格をしていてとても上手かったんですよね。自分は2年生になってようやくプレータイムをもらえていたのですが、彼は1年生の頃から試合にもちゃんと出ていて、もちろん選抜にも選ばれていました。彼の存在が、自分にとって大きかったと思います。」
自身もJr.オールスターの選抜に選ばれていたが、補欠。河合はスタメンで試合に出場し、東海地区のトップエンデバーの選考会にも参加していた。後輩に追い越されているのは理解していたが、それが決定的になったのは、地元静岡県で開催された東海4県の練習試合だった。試合には、中学のバスケ部の後輩や友達等、沢山の人が観戦にきてくれた。河合はもちろんスタメンで出場したが、自分はベンチを温める時間が続き、皆の前で活躍をする姿を見せることができなかったのだ。
「実力差があるのはわかっていましたが、凄い悔しくて。親にも“あんた、何とも思わないの?”って言われていて。何も思わないわけないので、どうしたら試合に出れるのかを考えるようになりました。」

考えた末、村越は日本代表のアシスタントコーチの経験もある1人のコーチに相談をいくことにした。そのコーチが月に1回開催している小学生を対象としたクリニックに参加。そこで「これだけやっておけ。」と言われてひたすら続けたのが、ターンシュートの練習だった。
「3年生になってからは、ひたすらターンシュートだけ練習していましたね。小中と、ドリブルをつくと怒られるほどドリブルが下手だったんですよ。ターンシュートだけで勝負ができるようになったので、自分の武器にすることができました。」

なぜ、ターンシュートだったのか・・・。元々シュートフォームも悪く、そこからの改善があったという。元々身長は高いため、打点を上げることによりブロックされにくくなるという理由から、シュートフォームを改善し、次にターンをするというステップを踏んだとか。


新たな武器を手に入れて

その成果も現れてか?学年で1人だったということもありキャプテンに就任。
新入生で青木保憲(現筑波大学)も入部し、夏の全国中学校バスケットボール大会(以下「全中」。)まで負けなしで戦うほどのチームを牽引した。

全中では、久々の全国のレベルを体感。今までブロックされずにいたシュートも初めてブロックされる等、テンションが上がる経験をした。
予選ブロックでは、優勝候補である九州1位の宮崎のチームと対戦。当時U-15トップエンデバー候補に入っていた選手とのマッチアップになり、最初は「県選抜補欠の自分じゃ、相手にならないだろう」と思っていたが、予想とは外れ、自分でも拍子抜けするほど対等に戦えた。予選2試合で合計50点を上げる活躍をし、1位通過。最終的にはベスト16で大会を終えることとなる。

これまでの悔しい気持ちと練習の成果が実り、一躍全国区になった村越は、ついに自身も、U-15トップエンデバー候補に召集されることとなる。メンバーには、富樫勇樹、橋本晃佑(現栃木ブレックス)、田渡凌等、現在でもトップレベルで活躍する選手が揃っていた。
「僕からしたら、その時の合宿は“月バスで見る人達の集まり”って感じでしたね。“こんなところで練習できるんだ”って凄く嬉しかったのを覚えています。いつも自分のチームでは同級生の選手がいなかったので、同じ歳が多かったていうのも嬉しかったですね(笑)。自分よりも背が大きい子も沢山いましたし、マッチアップしてボコボコにされましたけど(笑)。色んな刺激を受けて、練習レベルも高かったので、ただ楽しかったです。」

高校進学も控え、県内の複数のチームから声をかけられていた。県内の学校へと考えていたが、ある1人の人物の訪問が、進路を変更するきっかけとなった。
「第一印象は、どこの強面のおじいちゃんだろうと思いました(笑)。」
その人こそ、福岡大学付属大濠高等学校の田中国明監督だったのだ。村越の評判を聞き、福岡県から来訪。練習見学の後、食事の席を設けられることになった。
「最初は、正直あまり乗り気ではなかったんですよね。インターハイでいつも上位にいて、強いチームというのは知っていましたが、ピンとこなかったというか。田中先生の熱いチームビジョンの話とかを聞いて、気持ちが動き始めていました。」
その後、実際に大濠高校を訪問。先輩方も優しく、練習環境も素晴らしい。“日本一になれるチーム”を希望していた村越にとって、1番ベストの学校だと感じた。田中先生自身の心も既に決まっていたようで、あれよあれよと進学が決定。
「1番魅力的な学校だと思っていたのですが、1回地元に帰ってから返事をしようと思っていたんですよ。そう伝えたら、“じゃあ、うちに決めたらいい”って言われて。その言葉にビックリして、思わず“はい”って言っちゃって(笑)。ウェアやらリュックとかを渡されて、“どうしよう、どうしよう”とあたふたしました(笑)。」
同行していたお母さんも決めたという話を聞いて、「あんた決めたの?大丈夫?」と驚く場面もあったという。
田中先生の勢いにのまれる形となってしまったが、一大決心をして単身福岡へ乗り込むこととなった。

村越コラム


厳しい高校生活

初めての寮生活。ホームシックにはならなかったが、いざ入学してみると、優しいと思っていた先輩の表情はどこへやら。
「とっても厳しかったので、1年目は“なんで入っちゃったんだろ”って思っていました(笑)。」
規律正しい環境ではあったが、1年生からベンチ入り。プレータイムはほとんどもらえなかったが、間近で先輩のプレーを学ぶことができた。
「そんなに走れるわけでもなかったので、本当にターンシュートしかできなかったんですよね。なので、先輩のステップワークとかを見ているだけでも勉強になりましたし、ブロックの仕方とかも教えてもらって、次に進むための勉強が沢山できた時期でした。」

2年生になると、片峯聡太監督が就任。これまでの田中監督も残り、チーム体制が大きく変わることとなる。上手く変化に対応できなかったチームは、30年以上連続で出場していたインターハイへの切符を逃し、ウインターカップへの出場もなかった。
「2年目は、1回も全国大会を経験できなかったので悔しかったですね。ただその頃から、今のプレースタイルになっている“走る”ことを意識しはじめたかなと思っています。大濠のスタイルが走るバスケなので、常に走らされていたのですが(笑)。少しずつ走れるようになっていました。」

練習の成果が着実にプレーに表れ始め、ターンシュートを中心にプレーの幅が広くなっていった。3年生になると、片峯監督からも「お前が全部やれ」と指示をもらい、チームの中心選手に成長。新入生では、杉浦佑成(現筑波大学)が入部。選手層も厚くなり、昨年の悔しさを糧に、インターハイへの出場を決めた。
最初の山場となった、京北高等学校との2回戦。中心選手だった田渡凌と池田慶次郎(元早稲田大学)に60点をとられるも、村越と杉浦を中心に着実に点数を重ね勝利。
「3年生の頃から、3ポイントの練習を始めたこともあって、シュートレンジも広がってきていたんですよね。杉浦も、高校生離れした体格もしていたので(笑)。チーム力で京北を上回ることができたのだと思います。」
3回戦では尽誠学園高等学校と対戦。当時2年生だった渡邊雄太(現ジョージ・ワシントン大学)とマッチアップをした。まだ線も細く、フィジカルもそこまで強くはなかったが、1対1がとてもうまく、「全然勝てる気がしなかったです(笑)。マジで上手かったので凄い面白かったですね。できれば、もう1回対戦したいです。」と振り返る。
準々決勝であたったのは、延岡学園高等学校。ベンドラメ礼生(現サンロッカーズ渋谷)やジョフ・チェイカ・アハマドバンバ(現拓殖大学)を擁し、万遍なく一定のレベルのプレーができる選手が揃い、当時は敵なしの強豪校。歯が立つことなく28点差で敗れ、ベスト8という結果となった。
高校生活最後のウインターカップでも、準決勝で延岡学園と対戦するも、インターハイ以上の大差で敗れ、苦い気持ちが残ったまま卒業を迎えることとなってしまった。


高い壁への挑戦

高校の先輩である金丸晃輔(現シーホース三河)に憧れ、当初は明治大学への進学を希望していた村越。しかし、春くらいから声をかけてくれていた筑波大学への進学を決めることとなった。
「プロフィールの憧れの選手欄に『金丸さん』と書くほど憧れていたのですが、その時からプロ選手になりたいとも考えたうえで、教員への道も考えていたので、将来の進路とかも考えた結果、筑波大学に行こうと決めました。」

入学試験にも、周りの協力もあり無事に合格。次は、茨城県での生活が始まった。

高校では高さもあり、ある程度通用する部分が多かった村越だが、1年生の頃からこれまでとはレベルが違うことを実感していた。
「マッチアップしていたのが、張本さん(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)や永吉さん(現川崎ブレイブサンダース)だったのですが、フィジカルの違いを思い知らされましたね。体が違うなっていう印象が大きすぎて、必死に練習やウェイトをしていました。」

2年生からはスタメンとして試合に出る機会が増えたが、常に吉田健司監督に怒られていた。
「何かあっては、基本的に自分が怒られていました。1番印象に残っているのは、インカレの準々決勝での明治大学との試合ですね。前半調子が良くて20点差くらいで折り返したのですが、後半ひっくり返されて逆転負けしたんですよ。僕はファールアウトしてしまったのですが、控え室に戻った時に監督にもの凄く責められたんです。先輩や同期は“お前のせいじゃない”と言ってくれましたが、何も貢献できなかった不甲斐ない自分に対しても腹がたって、その日は1日泣きました。」
プレータイムも一気に延びた中での経験だっただけに、今でも忘れられない試合となった。

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控えとしての苦悩と葛藤

悔しい気持ちのまま迎えた3年生では、秋のリーグ戦後半頃からスタメンを後輩に譲ることとなる。「ボールを持っても攻める気持ちが無いからスタメンを外した。」とだけ監督に言われ、「どうしたらスタメンに戻れるのか」と考える時間が続いた。考えても答えはでてこなかったが、ベンチからのスタートの方がプレーが安定し、調子が良くなっていることにも気付いた。
「結果的に良かったのですが、やっぱりスタメンで出たかったので、“自分には何が足りないのかな”とずっと考えてはいました。」
自分の気持ちとは裏腹に、チームの調子も上がり、インカレでは61年ぶりの優勝を飾り、村越にとっても初めての日本一の経験となった。

そのまま4年生でもベンチメンバーが定位置。
「最初はまだスタメンに戻りたいと思っていたのですが、加藤さん(現東京Zアナリスト加藤翔鷹)や周りの人たちに相談をしていくなかで、スタメンが全てではないし、ベンチからでる選手というのは絶対大事だなって思い始めたんですよね。4年で最後にもなるので、チームが勝つために、たとえ控えであっても自分が貢献できることはしっかりやろうと考えるようになりました。」

そして、インカレ連覇を目指していたチームにとって、もう1つ悩みとなることがあった。それは、“絶対的なリーダー”の不在。
優勝をした前年は、笹山貴哉(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)・坂東拓といった、プレーや声を出してチームを引っ張るという絶対的なリーダーシップをもつ選手がいた。しかし、村越達の代になり、そういった選手がいないことを監督からも言われていた。
「春のトーナメントの時とか、苦しい時間帯は下級生がでていることが多かったんですよ。大事なところで使ってもらう選手というのは、絶対に上級生じゃないといけないと思うし、学生でもプロでも、勝つチームっていうのは必ず上の選手がしっかりしているものだと思っているので。4年生は誰もでていなかったことが悔しかったですし、監督に“お前たちのリーダーは誰なんだ?俺はこいつだと言える選手はいない”と言われていました。」

全員がもがき苦しみながらチームを作り上げていき、秋のリーグ後半戦から徐々にまとまりはじめ、迎えたインカレ。順調に決勝まで勝ち上がり、昨年と同カード、東海大学との対戦となった。最終ピリオドまで二桁得点差のまま筑波大がリードしていたが、残り2分には3点差まで迫られる展開。その後、筑波大はファールをもらいフリースローで着実に加点をしていき、見事連覇を果たすこととなった。
「今までバスケットをやっていて、高校生までは、最初から試合にでることが当たり前になっていたので、大学での経験というのは、本当に貴重な経験でした。プレータイムがもらえず、自信も無くして苦しい時期もありましたが、その時に考えていた時間は、自分にとって必要だったのだと思います。」


世界レベルを体感してプロの道へ

これまでもユニバーシアードの候補にも選ばれていたが、4年生の最後にも日本学生代表に選出され、李相佰杯に出場。初めて日の丸のユニフォームを着て試合に出場した。
「外国の選手はただ大きいだけじゃなくて、ドリブルも上手くて、走れる選手ばかりでした。学年が1つ下の選手が中心のチームだったのですが、フィジカルコンタクトが日本と全然違かったですね。普段なら押し込めるところが押し込めなかったり、レイアップいけるところをブロックされたり。初めて世界のレベルを知って、刺激をもらいました。」

大学2年生の頃から漠然とではあったが、『将来はプロ選手になって、バスケで飯を食いたい。』と考えていた村越は、これまでの経験を活かしてバスケを続けたいと決意。迷わず東京Zへの加入を決心した。

合流して3ヶ月。今の心境やチームの印象を聞いてみた。
「イベントも多く、地域の方や子ども達と直接会話のできる機会が沢山あるので、とても楽しいです。スクール活動も、コーチ研修をちゃんとしていただき、後々のためにも活かせるので大変有難いなと思っています。東京Zのアットホーム感がとても好きなんですよね。練習も、今の時期から、ちゃんと小野さんやコーチに指導してもらいながらできていて、きついですけど(笑)、とても充実しています。」

改めて自分に必要なものを確認しながら、開幕に向け日々練習に励んでいる村越。今シーズンの目標は、『ルーキーの中で1番の成績を残したい!』と即答で答えが返ってきた。
派手なプレーができるわけではないが、コツコツ自分なりにやっていけば、リバウンドであったり数字は残ると分析する。
「初めてプロという立場になって、試合数も大学と比べると全然違うので、慣れないことばかりだと思うのですが、1年目は経験を沢山して、プレータイムに拘ってやっていきたいです。最初に声をかけていただいたのがアースフレンズ東京Zなので、自分自身も一緒に成長しながら、1年目で昇格を決めます!僕はこのチームで上に行きたいので、一緒にB1へ行きましょう!!」と、最後に、とても熱く意気込みを語ってくれた。

自身の想いを語る裏で、もう1つお母さんへの恩返しの気持ちがこめられていた。
「母子家庭だったので、金銭面のこととか、色々と無理をしてもらったと思っています。いつも“自分の人生だから、最後は自分で決めなさい。”と、僕の気持ちを1番に考えてくれて後押しをしてくれました。大学時代に悩んでいた時も、“あいつらが輝けるのは、自分の頑張りがあるからだと思うくらいの気持ちでいなさい。自信を持ったらちゃんとできるんだから、自信を持て。”と檄を飛ばされましたからね(笑)。今はバスケを頑張ることしかできないので、しっかり良いプレーを見てもらって恩返しをしていきたいです。」

驕ることなく、いつも謙虚で独特な雰囲気を醸し出す村越。普段はおとなしいが、コート上でどんな姿を見せてくれるのか。影なる光となっていた彼が、プロとして、いよいよ表舞台への扉を開ける時がきた。

 

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