SHU’s EYE vol.4 「2015年もチームコンセプトは変わりません」
10月の開幕から10節を終え、チームは13勝5敗の3位でレギュラーシーズン中断期間に入った。
2014年の試合を振り返って、チームの状況や来年へ向けての考えを聞いた。
開幕から第10節までを振り返っての総括をお願いします
今年、ゼロからのスタートということで、選手も開幕の10月に入ってようやく5対5ができる状況になり、エヴァンも10月に入ってからの合流でしたし、そういう意味ではほんとに少ない人数で個々の能力をしっかり鍛えながら、選手たち自身が良い意味で危機感を持って開幕を迎えられ、その結果、開幕ダッシュができたと思います。オフェンス面ではチグハグになってしまったケースもありましたが、ディフェンスが大きく崩れなかったのが勝因に繋がったと思います。
上手く成長できた部分、課題として出て来た部分はありますか?
ディフェンスに関しては、非常に選手たち自身がアグレッシブに各個人の役割をやってくれて、チームディフェンスが少しずつ浸透してきたかなと思います。これにもっともっと時間をかけて、より強固なものにしていきたいと思います。 課題としては、ターンオーバー、イージーなミスが多いなと思います。オフェンスに関しては、ミスをなくしていけたらと思います。
思わぬ収穫となったような、当初の期待以上の成果が出た部分はありますか?
日本人ビッグマンの山田(哲也)選手が、1年間のブランクがあって心配はしていたのですが、コンディショニングもだんだん良くなってきて、エヴァンが休んでいる時間を任せられるようになってきたというのと、これからもっと良くなるかなという気がしています。
2015年の試合で注目して欲しいポイントなどはありますか?
これは開幕から変わりません。ディフェンシブなチームになることと、イージーなミスをなくし精度の高いオフェンスをしていくことを、開幕からシーズンの終わりまでコンセプトとして徹底していきます。10月18日の開幕からまだ3ヶ月しか経っておらず、5対5にもそんなに時間をかけていないので、これらの部分を底上げしていきたいと思います。
ファンのみなさんへ
いつも応援ありがとうございます。創設1年目ということで、どういうチームなのか分からない状況の中で、みなさんが会場に足を運んでいただいて、我々も励みになって頑張れています。選手たちもそう思っていると思います。試合を重ねるごとに、ファンの方々が多く会場に訪れていただいているのは肌で感じていますので、みなさんに、より良い、我々らしくチャレンジャーの気持ちを忘れずに、これからのオールジャパン、そして後半戦を戦って、みんなで「いいゲームだった」「いい大会だった」「いいシーズンだった」と言えるように、終わりたいと思います。
これからも、どうぞよろしく応援のほどお願いします。
2014-12-31
TAKU’s BRAIN vol.1『スタッツから見るチームの強さ-1.シュート成功率』
みなさん、こんにちは。
アースフレンズ東京Zアシスタントコーチの斎藤卓です。
普段のリーグ戦とはまた違った視点から東京Zを見ていこうと言うことで、今回から始まったこの「TAKU’S BRAIN」。
皆さんが聞きなれない数字やバスケ用語、その他諸々バスケットに関わる話を分かりやすく伝えていきたいと思います。
さて今回は、初回ということで「スタッツ」について話をしたいと思います。
『スタッツ』とは?
「スタッツ」・・・・初めて聞く人も少なくないかもしれませんね。
NBA等の試合をテレビで見たことがある人は、画面によく出てくるので分かるかと思いますが、これは簡単に言うとバスケのコートの上で起こった事象を数字に表したものの総称です。
分かりやすいところでいうと
「シュートを打った本数」
「シュートが入った本数」
でしょうか。
例えば2ポイントシュートを打った本数が10本、そのうち入った本数が5本であれば2ポイントシュートの確率は50%だったということになります。
これをスタッツで表すと
2P AT 10
2P M 5
2P% 50%
になります。
なんかいっきに専門用語っぽい雰囲気になりましたね。
解説します。
これは
『2P AT 10』 2P(2ポイントシュート)のAT(attempt = 試投数)が10本
『2P M 5』 2ポイントシュートのM(made = 成功)が5本
『2P% 50%』 2ポイントシュートの確率が50%
って意味になります。
まーかなり基本的な数字なので、知らなかったとしても、なんとなく見れば分かりますよね。
シュートに関して言えば他には
『FG%』 フィールドゴール (= 2Pと3Pを合わせたもの) の確率
『3P%』 3ポイントシュートの確率
『FT%』 フリースローの確率
等があります。
ではこのシュートの確率、どれくらい入れば良いのでしょうか?
シュート成功率が良い選手の見分け方
プレーするレベルやポジションによってももちろん変わってきますが、一般的には
2P ・・・2本に1本(50%)
3P・・・3本に1本(33%)
FT・・・10本中8本(80%)
をクリアすればOKと言われることが多いですね。(もちろん違う考え方の方もいらっしゃると思います)
これはNBL・NBDLやbjリーグ、さらにはNBAまでも同様に考えて良いと思います。
野球のバッターでよく言われる「3割」と同じ感じですかね。
「じゃー実際の選手が残している確率ってどれくらいなの?教えてよ。」
って数字に興味が出てきた人もいると思うので、今のNBDLのシュートスタッツの上位を見てみましょう。
(第8節終了時点)
【FG%】
【3P%】
【FT%】
※画像は NBDL公式サイト より引用
となっています。
いやーフィールドゴール1位のジョーンズの確率はすごいですね。
約7割というのは、見ている方とすれば「打ったらほとんど入る」って印象がある数字です。
敵ながらあっぱれな数字ですね!!
ちなみにジョーンズ選手、フリースローは63%です。。。
そして我らがアースフレンズ東京Zの高山選手もしっかりランクインしていますね。
グッジョブ!!
でもどうですか?
ランキングはリーグのトップ5なのでみんな確率が良いですが、それでも最初に言った「2P50% 3P33% FT80%」が丁度良い指針になっていませんか?
下にNBAの昨シーズンの数字も載せてみますが、ほぼ似たような数字になっています。
(2013-2014シーズントータル)
【FG%】
?デアンドレ・ジョーダン(ロサンゼルス クリッパーズ) 67.6%
?アンドレ・ドラモンド(デトロイト ピストンズ) 62.3%
?ドワイト・ハワード(ヒューストン ロケッツ) 59.1%
?レブロン・ジェームズ(マイアミ ヒート) 56.7%
?アミール・ジョンソン(トロント ラプターズ) 56.2%
【3P%】
?カイル・コーバー(アトランタ ホークス) 47.2%
?マイク・ミラー(メンフィス グリズリーズ) 45.9%
?アンソニー・モロー(ニューオリオンズ ペリカンズ) 45.1%
?ホセ・カルデロン(ダラス マーベリックス) 44.9%
?マルコ・ベリネリ(サンアントニオ スパーズ) 43%
【FT%】
?ブライアン・ロバーツ(ニューオリオンズ ペリカンズ) 94%
?ダーク・ノビツキー(ダラス マーベリックス) 89.9%
?レジー・ジャクソン(オクラホマシティ サンダー) 89.3%
?D.J.オーガスティン(シカゴ ブルズ) 88.5%
まーNBAは3Pの距離も遠いですし(NBAは7.24メートル、NBDLは6.75メートル)、試合時間も長いので(1Q12分×4の48分)、一概に比較はできないですが、それでもある一定以上のレベルになるとシュート確率は似たような数字になるということが分かったかと思います。
ちなみに「2本に1本入る2Pシュート」も「3本に1本入る3Pシュート」も結果的には得点が同じになります。
2P 3/6 (50%)→ 6点
3P 2/6 (33.3%)→ 6点
シュート成功率と勝利の関係
つまり2Pは50%以上、3Pであれば33%以上の確率で入るプレーヤーが多くいればいるほど、勝つ確率が増えると言えるかもしれません。
逆に、チームにそういったプレーヤーがいないのであれば、ディフェンスで相手のシュートの確率を下げることが大切になってくると思います。
2014-12-11
SHU’s EYE vol.3 「我々のディフェンスを見て欲しいと思います」
リーグの開幕節を終え、いよいよ今週はホーム開幕節。
短い取材の中で何度も小野ヘッドコーチから出てきた言葉は「ディフェンス」。
現在のチーム状況と、ホーム開幕での注目ポイントについて語ってもらった。
ここまでのチームの仕上がりはいかがでしょうか
チームのメンバーが10人以上揃ったのが10月に入ってからだったので、それまでは練習の中では4対4までの練習しかできず、他チームとの練習試合でしか5対5ができない状況でした。10月に12名の選手が揃い、ようやく練習でも5対5ができるようになった中で迎えたリーグ開幕の2試合でしたが、思っていたよりいい形が作れたなという感じです。
まだまだチームとして、特にオフェンス面では我々の目指す所には到達していないですが、これからゲームを通して選手同士の連携やチームケミストリーができてくると思っているので、期待しています。
ホーム開幕節で「見て欲しい」と思うポイントはどこですか?
我々の一番の武器はチームディフェンス。相手に激しくプレッシャーをかけ続けるディフェンスです。それが試合の中でどう機能するのか、ぜひ試合で注目してもらいたいです。
リーグ開幕の2試合でもディフェンスからテンポを作れたので、今回のホーム開幕戦でも大塚商会を相手に我々らしいディフェンス、アグレッシブなディフェンスを見てもらいたいと思います。
2014-10-24
渡邉拓馬「若いチームを支える プロ13年の経験」
幼少期よりバスケ漬けの生活を送って来た渡邉。
自身を取り囲む環境、類いまれな身体能力、そして並外れた『上手くなること』への想いと行動で、世代を代表する選手へと昇りつめた学生時代。さらにトップリーグでの多くの経験を経た渡邉が、今目指すものとは。
バスケ一家の英才教育
両親は共に実業団でプレーしていたバスケットボール選手。引退後は両親ともミニバスのコーチをしており、2人の姉もバスケをやっていた。そんなバスケ一家の長男として渡邉は生まれた。
幼稚園の頃から親が指導している体育館に連れて行かれ、3歳の頃からボールを触っていた。その頃はまだ、バスケをしているというよりもボールにもて遊ばれていたようなものだったが。
小学2年生より、小学校のミニバスチームに入団。しかし、渡邉は楽しんでバスケをしていたわけではなかった。「渡邉家として自然な流れという感じでミニバスチームに入りました。『バスケがしたい!』という気持ちは正直なかったです。家でもバスケのことばっかりで、いつものように叱られてました。家のテレビで自分の試合の映像を見ながら、両親と2人の姉からの集中砲火(笑)。父親から『お前はモノにならない』って言われたのは、今でも心に残っています。この言葉は、後々僕の心の支えになっていったんですけど。」
当時は”怒られないために”練習していたという渡邉。朝から近くの公園でシューティングをして、学校が終わったらチームの練習。家でもバスケの話と、これ以上ないほどバスケ漬けだった。ミニバスチームはもともと強かったこともあり、6年時には全国大会にも出場。渡邉はリバウンドからボール運び、そして得点まで何でも1人でこなすオールラウンダーだった。「マイケル・ジョーダンが好きだったんで、ジョーダンのマネをしてシュートしたりしていました。」
変化するバスケへの想い
中学校に進学すると、1年生の時から試合に出るようになる。小学6年生で155cmだった身長は、中学に入ると急激に伸びた。そして、それに比例するように、渡邉のバスケスキルは急成長していった。「身長が伸びていって、やりたいプレーがどんどんできるようになっていく感覚でした。」プレーの上達に伴って、両親から叱られることも少なくなっていき、バスケをするのが楽しくなっていった。そしてこの頃から、『どうしたらもっと上手くなれるか』を追い求めていくようになる。練習が終わっても自主練習。途中で体育館の電気が消されても、残ったステージの明かりで体育館の鍵を閉められるまで練習を続けた。
姉の存在
渡邉は、そのプレーで県内でその存在を知られていき、福島県のJr.オールスター(中学選抜)にも選ばれ、チームも3年時には全国大会に出場した。だが、渡邉の存在が全国に知られていったのは、自身のプレーよりも姉の存在によるものが大きかった。渡邉の2番目の姉・貴子が、愛知県の名古屋短大付属高校(現在の桜花学園高校)で全国優勝を果たし、全日本ジュニアにも選ばれるなど国内トップ選手として活躍していた。そして渡邉は『渡邉貴子の弟』として知られるようになったのである。だが、渡邉はそれを良く思ってはいなかった。『弟』ではなく『渡邉拓馬』として扱われたい。その想いが、さらに”上手くなりたい”という気持ちを強くした。
バスケへの姿勢がチームを変える
渡邉には県内だけでなく、全国の強豪高校からも誘いがあった。そんな中で、高校2年生の時に、地元で開催される国体に福島県代表として出場するため、地元の福島工業高校を選んだ。
渡邉は誰よりも一心不乱に練習に取り組んだ。バスケ部の使っている体育館の利用時間が終わると、毎回空いているサブ体育館に行き、個人練習をしていた。壁を使ってパスを受けたり、試合のシチュエーションをイメージしながら、黙々と練習に明け暮れた。始めは渡邉の他に自主練習に来る者はいなかったが、次第に同年代の選手たちが渡邉に感化されて自主練習に来るようになり、渡邉が上級生になってからは、後輩たちもみんな練習に来るようになっていった。
『渡邉拓馬』として全国屈指のプレーヤーに
言葉で周りを鼓舞するタイプではなかったが、バスケへのひたむきな姿勢でチームを引っ張っていった渡邉。コートの上でも圧倒的な得点力に加え、軽々とダンクシュートを決める身体能力の高さでチームを牽引。2年時の福島国体では準優勝、3年時にはウインターカップ準優勝の成績を残し、大会得点王となった。この頃には、『弟』ではなく『渡邉拓馬」として全国にその名を轟かせた。
また、姉と同じく全日本ジュニアのメンバーに選出。アジアジュニア大会に出場し、将来のNBA選手を擁する中国などのチームを相手に得点源として活躍。日本はアジア3位の成績を残し、個人としても得点王・大会ベスト5を獲得した。国内だけでなく、アジアを相手にも自分のプレーが通用するという自身を得た渡邉は、この頃からプロ選手になりたいという気持ちを持ち始める。
大学バスケ界を席巻し、金字塔を打ち立てる
世代を代表する選手となった渡邉。当然、多くの大学から誘いの声がかかった。その中で次の舞台として選んだのは、拓殖大学だった。拓殖大の森下監督とは中学時代から指導してもらう機会があり、当時から「君は全日本の選手になれる」と期待をかけてもらっていた。
大学では1年時からスタートとして起用され、チームの中心選手として活躍。そして関東大学1部リーグで、大学1年?4年までの4年連続で得点王を獲得するという、前人未到の記録を打ち立てる。大学の全国大会であるインカレでも3年時に準優勝を果たし、得点王、大会ベスト5を獲得。
感じた世界との差
また、ユニバーシアードの日本代表として3度大会に出場。この大会で、渡邉は世界のレベルの高さを知った。「ヨーロッパのチームが凄かったです。アメリカ人みたいな身体能力はないけど、みんなデカくて上手い。チームとしての戦い方も、向こうが何枚も上手でした。その時、日本が目指していくべきスタイルはこういうバスケなんだと感じました。その想いは今も変わっていないですね。」この経験が、よりプロ選手として、バスケ中心の生活をしたいという気持ちを強くした。
最高のスタートで悲願の日本一
大学を卒業した渡邉は、トップリーグのトヨタ自動車アルバルクに入団。念願のプロ生活をスタートさせた。
渡邉の入団と同じタイミングでチームのコーチに就任したのは、現アースフレンズ東京Zヘッドコーチの小野秀二。渡邉はスーパールーキーとしてセンセーショナルなデビューを飾る。優勝候補のチームにあって主力選手の1人として活躍し、01-02シーズンのリーグ初優勝に貢献。自身も新人王を獲得。「素晴らしいチーム・仲間とのプレーで、何をやってもうまくいく感じでした。今まで小学校からずっと全国大会には出ていましたが、ようやく日本一を成し遂げることができて、すごく達成感を感じました。」
『心』の力を知る
日本代表にも選ばれ、早くも日本のトップスター選手の仲間入りを果たした渡邉。しかし、プロ3年目頃から、これまでの昇り調子が一転、自分のプレーができなくなってしまう。「日本代表の活動などもあって、精神的にも肉体的にも疲れてしまっていました。プロ1年目でいきなり優勝できたので、それ以降モチベーションを保つのが難しくなっていたというのもあったと思います。」精神面がプレーに影響し、それがさらなる緊張感や悩みとなって自分を追いつめるという悪循環に陥っていた。
そんな渡邉を救ったのは、当時日本代表監督をしていたジェリコ・パブリセヴィッチ氏だった。「ジェリコが自分に期待してくれているのをすごく感じて、それに応えたいという気持ちが自分を動かすエネルギーになるのを感じました。それに、トレーニングもすごくハードで、自分がやってきたことがまだまだ甘かったんだと思い知らされましたね。」ヨーロッパ式の練習とジェリコ監督の情熱で、渡邉は再び輝きを取り戻す。トヨタは復調した渡邉の活躍で、05-06・06-07シーズンにはリーグ連覇を達成。渡邉はベスト5にも選出された。
アスリートとしての岐路、そして移籍
プロ選手として10年が経った頃、渡邉は自身のプレーの衰えを感じ始める。「簡単に決められたはずのシュートが決められなくなったり、気持ちの面では充実しているのに思うようなプレーができなくなっているのを感じるようになりました。」という渡邉は、試合でもスタメンではなく、控え選手として試合に出るようになっていく。
そして2012年、渡邉は日立サンロッカーズへの移籍を決意する。「より自分を必要としてくれるチームで、自分の価値を確かめたいという想いで移籍を決めました。トヨタのコーチ達も僕の気持ちを理解してくれて、温かく送り出してくれました。日立はまだ発展途上のチームでしたが、小野さんもいて誘ってくれた。良い選手も集まっていて勝てる要素がある。そして何より、自分の経験やプレーが生かせる気がして、このチームへ行こうと決めました。」日立に移籍した渡邉は、ベテランとしてチームを支える役に回り、チームの上位進出を支えた。
しかし、翌シーズンには小野ヘッドコーチが退任。新コーチのもとで再建を目指した日立は、チームの強みを発揮できないまま苦しい1年を過ごした。「2年目はチームの仲間同士の信頼関係がしっかりと結べなくて、それがコート上で出てしまっていました。自分が何とかできればと思っていたのですが、チームを大きく変えることはできなかったのは悔しかったですね。」
14年目の新たな挑戦
日立で2シーズン目が終わった今年、渡邉は新たなステージへの挑戦を決めた。
「トヨタ、日立とプレーしてきて、企業チームとしてサポートを受けて、良い環境でやってこれました。ただ、本当に日本のバスケが強くなっていくためには、プロチームが勝てるようになっていかないと駄目だという想いも持っていました。
そんな折、新しいプロチームが東京に誕生するということを知りました。これからスタートするチームとうところに、とても魅力を感じました。また、代表の山野さんと話して、スクールの活動やこれまでの取り組み、チームの目指す方向性に共感し、自分が『バスケ人』としてさらに広がっていけるのではないかと考え、このチームを次のステップとして選びました。そして「ここでプレーをする」と決めた後、小野さんがヘッドコーチになることを知りました。小野さんとはホントに縁がありますね(笑)このことで、自分がこのチームを選んだことは間違いじゃなかったって確信が持てました。
このチームは若い選手が多いチーム。自分のこれまでの経験上、若い選手が思いっきりプレーしている時は、チームも勢いに乗っていけるので、若い選手たちがチームをリードしていけるようにサポートしていきたいです。スタメンで試合に出る選手の気持ちも、控えで出る選手の気持ちも両方経験してきたので、それぞれに助言してあげることもできます。チームが道を外れないように軌道修正してあげながら、チームを支えるのが自分の役割だと思っています。」
長年のバスケキャリアの中で多くの経験を経て来た渡邉が、若さ溢れるチームのエンジンに火をつける。
2014-10-17
佐々木隼「これが隼の生きる道」
どんな時でも自分のリズムを崩さず、あまり闘志を表に出すタイプではない佐々木。
しかし、彼のバスケ人生をたどると、バスケに対するあくなき向上心と、自分の役割を的確に分析するクレバーさが見えてきた。
習い事は週7日
幼稚園の頃から、佐々木は毎日のように習い事に通っていた。野球、サッカー、空手、水泳、学習塾、などなど。それらは自分からやりたいと言い出したものではなく、両親から半ば強制されて始めたものだった。「毎日何か習いに行ってました。オフなしです(笑)空手の時なんて『上達したら”かめはめ波”が打てるようになるぞ』って言われて、当時はそれを本気にしちゃって始めたんですが・・・まんまとダマされました(笑)」。当然サボることなど許されず、佐々木が友達と遊ぶ時間は、毎日学校から家に帰る時間だけだった。ただ、そんな生活を送っていただけあって、体は大きく何でもできる万能少年に育っていった。
流れで始めたバスケ
小学校にはミニバスチームはなく、佐々木がバスケを始めたのは小学6年生のクラブ活動からだった。バスケを選んだ理由は、「これまで一緒にサッカーをやっていた仲の良い友達がバスケを選んだから」という主体性のないものだったが、クラブ活動を通して次第にバスケの楽しさを知っていく。
ある日、クラブ活動で近隣の小学校と対抗戦が行われた。その日、野球の習い事が入っていた佐々木は両親から猛反対を受けながらも、何とかバスケの試合に行くことを許可してもらう。そして、参加した試合で佐々木は大活躍を見せる。既に身長は170cmを超え、高い身体能力を有していた佐々木はダンクシュートを連発。他を圧倒する活躍でチームを優勝に導いた。
辞めるための勝利
ますますバスケの魅力にはまっていった佐々木は、中学ではバスケ部に入ることを決意。しかし、ここでも親の猛反対を受けることとなる。お互いに譲らず話が平行線に進む中、佐々木にバスケをやるための条件が出された。それは、『現在やっている習い事全てで優秀な成績を収めること』というものだった。野球では4番・ピッチャーを任されるなど、団体種目では既にチームNo.1のポジションにいた。個人競技でも、空手の流派の大会で優勝、水泳でも平泳ぎで都大会優勝を果たすなど、見事に結果を残してみせた。
佐々木は当時の気持ちを、「優勝したことが嬉しいじゃなくて、『やっとこれで辞められる』っていう喜びでいっぱいでした(笑)」と語る。
目指すべき目標との出会い
そして、晴れてバスケ部への入部を認められた佐々木。中学のバスケ部は区大会1回戦負けが定位置のチームだった。
にもかかわらず、強豪の中学から顧問の監督が赴任したばかりで、練習は厳しかった。ある日、顧問の監督が以前いた中学校と合同合宿をすることになった。監督から「向こうのチームに東京No.1の1年生がいるぞ」と言われた。その選手とは、現在のチームメイトである大野恭介のことだった。実際、大野のプレーは群を抜いていた。「とても同学年とは思えなかったです。今まで野球でも空手でも”できる”ほうだったので、恭介を見た時には『こんなに上がいるのか』っていう気持ちになりました。」という佐々木は、この日から大野を目指すべき目標として見定め、より上手くなりたいとう気持ちを強めていく。
佐々木は中学のJr.オールスター(東京都選抜)に、1年目から候補選手として選ばれたが、この年は最終メンバーには残れなかった。一方の大野は、1年生ながらメンバー入りを果たす。それからは佐々木はさらに練習に励むようになった。中学のバスケ部では大黒柱として得点やリバウンドを荒稼ぎし、1試合で60点を取る時もあった。センターとしてゴール付近で敵なしの力を身につけた佐々木は、2年生の時にはJr.オールスターの最終メンバーに選ばれ、大野とともにスターティングメンバーに名を連ねた。「ポジションが違うから比べられる話ではないですけど、1年生のときは雲の上にいた大野と、ついに同じ舞台に並び立ってやったぞ、っていう気持ちで嬉しかったですね。」
自分を変えた「最高の環境」
都内でも有数な選手へと成長した佐々木には、都内の強豪校からいくつも誘いが来た。しかし佐々木は、どこの高校がいいという考えはなく、大野と一緒にプレーがしたいと思っていた。そんな時、大野から佐々木に連絡があった。「俺、菅生(すがお)行くんだけど、一緒に来ないか?」この一言で佐々木の進路は決まった。どこにあるかも知らなかった東海大菅生高校への進学を決めたのだった。
あきる野市にある東海大菅生高校は、佐々木の住む練馬からは遠かった。そこで、高校ではバスケ部のコーチである近藤先生の家に下宿させてもらうことにした。この下宿生活が、佐々木をバスケ選手として、人としてさらに加速的に成長させることになった。朝は近藤先生と一緒に学校へ行き、ほぼマンツーマンでシュート練習をした。佐々木は中学まではシュートが入る選手ではなかったが、近藤先生の指導によりミドルシュートを自身の最大の武器と呼べるまでに磨き上げた。
下宿先では先生の奥さんが作ってくれた料理が出され、嫌いな野菜も残すわけにいかず食べ続けた。中学までは肉ばかりの食生活で「下宿を始めて最初の1年は、日々の食事は苦痛でした」という佐々木も、1年が経つと何でも食べられるようになり、栄養面でも多大なサポートを受けた。さらに、近藤先生はバスケ技術だけでなく、人としての心構えを佐々木に説いた。「『”カッコつける”ことが格好いいんじゃない。何か目標に向かって一生懸命になるのが格好いいんだ。』という先生の言葉は今も残っていますね。昔からサポーター付けたりして目立とうとしてたんで(笑)」
息の合ったコンビプレーで全国へ
当時の菅生高校は長身の選手が少なく、佐々木は1年時から試合に出ていたが、上級生になるにつれてチームの得点源へと成長していった。さらに、現在のチームメイトであり後輩の高山師門と2人でインサイドをやるようになってからは、絶妙なコンビプレーを発揮して得点を量産した。「師門とは何も言わなくてもお互いにやりたいことが分かっている感じでした。基本的には師門が頑張って、困ったら俺がやるっていう感じでしたけどね(笑)」。阿吽の呼吸を発揮する2人の活躍と、中学時代とは変わってチームのバランサー役に回った大野の活躍を中心にチームは勝ち上がり、佐々木が3年の時にチームは初めて全国大会出場を果たし、ウインターカップでは全国ベスト8まで勝ち進んだ。
より高い次元での戦い方を求めて
3年生のインターハイ後、佐々木は付属高校の対抗戦を見に東海大学へ来ていた。そこで、東海大バスケ部の陸川章監督と偶然出会い、声をかけられた。そこでの陸川監督の情熱に感化され、東海大学へ進学することにした。
大学バスケについて良く知らなかった佐々木は、東海大学のバスケ部に入って衝撃を受けた「高校時代に全国大会で活躍してた選手があちこちにいてビックリでした。『こんなメンバーの中で自分がやるのか』って。練習も、高校より楽なんだろうっていう勝手な想像があったんですけど、とんでもなかったです(笑)」大学界でも一、二を争う練習の質と量をこなすチームの中で、佐々木のプレーは通用しなかった。しかし、悲観的な気持ちは持っていなかった。佐々木は冷静に、客観的に、『どうやったら試合に出られるだろう?どうやったらこの相手から点が取れるだろう?』と考えるようになっていた。
システマチックなオフェンスにも最初は混乱したが、持ち前の要領の良さで順応していくと、1年生のうちから徐々に試合に出られるようになっていった。大学の試合で佐々木が武器としたのは、リバウンドだった。読みの鋭さと跳躍力、そして”何が何でもボールを取る”という負けん気でボールに飛びつき、結果を残していった。「頑張る大切さは近藤先生から教わった大事なもの。(陸川)監督も一生懸命なプレーは好きなので、そこでアピールするしかない、って気持ちでした。」という佐々木は、3年時には6マンとして多くのプレータイムを得るようになる。
最終学年に襲われたアクシデント
4年生になり、最上級生として集大成を飾るべく燃えていた。しかし春の関東トーナメントを目前に控えたある日、朝起きたら足首がパンパンに腫れ上がり、激痛を伴って立ち上がることもできなかった。すぐさま病院へ行き診断を受けたところ、間接の酷使による骨の変形症だということが分かった。手術をすれば痛みは取れるが、シーズン終了までプレーすることはできなくなってしまう。佐々木が選んだ選択は、手術を避けて痛みと戦いながらプレーを続けるというものだった。痛み止めの処置をして、テーピングをしながらプレーを続けた佐々木だったが、参加できる練習も限られ、結局最後のシーズンでは試合に出ることができないまま、引退を迎えることになった。
捨てきれなかった「上を目指す」事への思い
最終学年で試合に出られなかった佐々木に、声をかけるトップリーグのチームはなかった。
大学バスケ引退後に手術をして、再びプレーできるようになった佐々木は、監督の紹介で実業団チームの葵企業に加入。実業団のチームには大学時代に第一線で活躍していた選手も多く、決して低いレベルのリーグではなかった。しかし、練習は週に2日、生活のメインは仕事という環境に、佐々木は「自分はこのままで終わっていくのか?」という思いを持ち始める。ちょうどその頃、高校時代のチームメイトである大野がアースフレンズというクラブチームでプレーし始めたことを知り、チームの目指すビジョンに興味を持ち始める。翌年、高山も加入し、その年にアースフレンズのNBDL参戦が決定。佐々木はこれ以上、自分の気持ちに?をつくことができなかった。
佐々木は会社員としての安定した生活を捨て、プロの世界に挑戦。そしてアースフレンズ東京Zの一員として、チームに加わることとなった。
「チームに入ったらスタッフ陣は凄いし、拓馬さんも入って来るしで、驚きの連続でした。自分がこうなりたいと思って自分の進む道を決めたのは、今回が初めてと言えるかも。でも、自分の選んだ選択は間違いじゃなかったって今は思っています。プロとしては1年目なので、ルーキーらしくプレーして、色々学んで成長していきたいです。バスケではまだてっぺんを取ってないので、このチームメイトと日本一を取りたいです。」
流れるままに進むべき道を選んできた佐々木が、退路を断って臨むプロの世界。
逆境にも飲まれないマイペースさと状況を的確に読む鋭さで、チームにアクセントをもたらす。
2014-10-09
高山師門「挫折と負けん気を 成長の糧に」
高校を初の全国大会出場に導き、大学でも日本一を経験。その後加入したクラブチームが1年でプロ化と、成功への道を突き進んでいるかに思える高山のバスケ人生。しかしその途中には、試合に出れない辛さ、期待に応えられないプレッシャーに挫けそうな、もう1人の高山がいた。
遊びの中で磨かれていった身体能力
幼稚園の頃から外遊びが好きだった。
高山が通っていた幼稚園は、1ヶ月間合宿をしたり、かまどを作って火を起こしたりと一風変わっていたため、外での遊びには事欠くことがなかった。そのおかげで、小学校入学時には身体能力では頭一つ抜けていて、リレーの選手にも毎年選ばれていた。
小学校時代は水泳やサッカー、ピアノなども習っていたが、どれも2年ほどしか続かなかった。高学年になってからは習い事を全て辞め、仲の良い友達とスポーツをしたり、遊びをして過ごす日々だった。そんな遊びの一つにバスケがあり、高山はバスケの楽しさにハマっていく。
仲良し軍団とともに悔しさを晴らす
中学校に上がると、一緒に遊んでいた仲良し軍団みんなでバスケ部に入部。
遊びでバスケをしていたとはいえ、ほとんど初心者同然の一年生は練習には参加できず、ステージの上でボールハンドリングとドリブルの練習ばかり。そしてようやくレイアップシュートを練習し始めた頃に、隣町のミニバスチームと1年生で練習試合をすることになった。本格的にバスケを初めて4ヶ月ほどの中学1年生チームは、小学生たちに翻弄され負けてしまう。「あの時はホントに悔しかったです。僕たちは全員初心者だったので勝てなくてもしょうがないんですけど、そういう問題じゃないので。」と高山は当時を振り返る。それから、仲良し軍団で練習以外の日もバスケに明け暮れ、集まって遊びに行くのは決まってバスケットゴールのある場所だった。そんな日々でだんだんと上手くなっていき、小学生にも勝てなかった1年生軍団は、その年の1年生大会では市大会優勝という結果を残す。
高いレベルへの渇望
高山は上級生と一緒のチームでも少しずつ試合に出始めるが、チームの中心選手というほど飛び抜けた能力を持っていたわけではなかった。高山本人も「自分が活躍していたイメージはない」とのこと。だが、背の高さとアグレッシブなプレーが評価され、1年の終わりに東京都のJr.オールスター(中学選抜)の候補選手に選ばれる。選抜メンバー入りはならなかったものの、技術も知識も自分の中学のバスケ部とはレベルが違う選抜チームの練習は、高山にとって刺激となった。
「仲の良い仲間と楽しくバスケをするのも好きだけど、試合には負けたくない。勝ちたいから、高いレベルで求められる環境に身を置きたい」そう感じるようになっていった。
意識の高まりがさらにプレーの成長を促し、バスケ部では中心選手としてリバウンド・得点を取るようになっていた。翌年はJr.オールスターの選抜メンバー入りを果たし、初めて「全国レベル」を経験する。
伸び伸びバスケの中で能力が開花
中学を卒業した高山は、現在のチームメイトでもある大野恭介・佐々木隼が1学年上に在籍していた東海大菅生高校に進学する。1年生の頃は、試合での出番は少なかった。高山は試合でのプレータイムを伸ばすために、自分より上手い先輩たちのプレーを見て、それぞれの長所を身につけようとした。「間合いの取り方が上手い、ステップワークが上手い、パワーのある先輩など色々いて、全部身に付ければ誰よりも上手くなれるなと(笑)。もちろん100%とはいかなかったですけど、成長できるきっかけになったと思います。」そう語る高山は、3年生が引退してからはスタメンで試合に出るようになる。監督が「佐々木と高山の2人で50点取れ」と言われ、自分の役割がはっきりとした高山は、スコアラーとして積極的にシュートを打つようになり、実際に2人で毎試合50点以上をあげた。高山が2年生の年には大野キャプテンのもと、チームが初めてインターハイ、ウインターカップに出場。高山は平均25得点をあげる活躍を見せ、得点ランキングにも名を連ねる活躍を見せた。
監督を再び全国へ
3年時にはキャプテンに就任し、昨年以上の結果を残すべく燃えていた。しかし、インターハイ予選では全国大会出場を決める最後の試合で終盤に逆転を許し、全国への切符を逃してしまう。さらに、追い打ちをかけるように予選会の後、監督が急病で倒れてしまう。高山ら3年生は病院に監督を見舞いに行くと、自分のことで精一杯のはずの監督は、後遺症でマヒが残る体で選手のことを気遣い、チームのことやそれぞれのプレーについて熱く語ってくれた。そんな監督の想いに強く感動した高山らは、「こんなに想ってくれている先生を、とにかく全国に連れて行こう!!」と、さらに強い気持ちで練習に打ち込むようになる。結果、インターハイより少ないウインターカップの出場権を獲得。ウインターカップでは2年連続で全国ベスト8まで勝ち上がった。
最も苦しかった4年間
いくつかの大学から声のかかった高山だったが、実際に足を運んで練習にも参加し、先輩後輩の仲の良い雰囲気が高校に似ていて、情熱的な監督の下で高いレベルの練習をしている東海大学へ進学を決めた。
ここで高山は「大学の4年間は今までの人生で一番苦しかったです」と、ため息を吐くように漏らした。高校までのバスケは、自分が打てると思ったらガンガンシュートを打っていく自由なスタイルだったが、東海大は決められたチームの戦術の中で確実に得点できるチャンスを作り出していくシステムバスケ。どうやって自分の持ち味を出せば良いのか分からなくなっていった。ちゃんとしたウエイトトレーニングもしたことがなく、学ばなければいけないことだらけだった。
また、高校までは下級生の時から試合に出ていたのに、試合に出れないどころか後輩の田中大貴(現トヨタ自動車アルバルク東京)らが自分のポジションで試合に出ていることで焦燥感にもかられた。さらに、チームは他のどの大学よりも長い時間、ハードに高い意識で練習している自負があったのに、リーグ戦やインカレ(全国大会)では良い結果が残せずにいたことが、やりきれない気持ちに拍車をかけた。
「ほんとにしんどかったですね。チームも良い成績が残せなくて『これ以上何をどうやったらいいんだ』っていう感じで、挫けそうでしたね。」
仲間に支えられ、有終の美を飾る
そんな高山を支えたのは、自分の信念、そして仲間の支えだった。
「『自分で考えて決めた道なんだから、絶対に後悔はしない』という想いがあって、ここで挫けちゃだめだって自分に言い聞かせていました。同期のチームメイトともよく話をしました。みんなと話して『ここから頑張ろう』って元気をもらえました。友人・家族・コーチなど、たくさんの人に支えてもらって、ほんとに感謝してます。」
高山が4年生になった年にはチームの調子も上向き、春のトーナメント・秋のリーグ戦では準優勝。そして、インカレではそれまで3戦3敗だった青山学院大を決勝で破り、ついに全国大会優勝を成し遂げた。高山は決勝の残り時間1分から出場すると、たった1度だけ訪れたシュートチャンスで見事にシュートを沈め、この試合で最もベンチ・応援席を沸かせた。それは、悩み・苦しみながらもひたむきに努力してきた高山を知っている仲間の、心からの歓喜だった。
「最後のインカレで勝つことができて、やっと報われたと思いました。試合に出れたこと、シュートを決めたことももちろん嬉しかったですけど、チームが目指していたものを掴むことができたのが何より嬉しかったです。大学4年間は一番苦しくて大変でしたけど、その分色々なことを考えて実践したし、選手としても人間としても大きく成長できました。今になって思えば、自分にとってすごく貴重な4年間でした。」
直感を信じて無名のチームへ
大学卒業後に高山が選んだ進路は、まだ無名だったクラブチーム「アースフレンズ」だった。
「今思えばよくその道を選んだなって思います(笑)。本気でバスケがしたいっていう想いで選んだのが、クラブの県大会2回戦負けが最高成績のチームとか。大学の仲間にも『地球の友達?』って小馬鹿にされてましたし。実業団のチームからも誘いを受けて、練習に参加してみたりしましたが、何か違うなと。バスケを真剣に、本職としてやりたかったんです。学生の頃からプロになりたいっていう気持ちもありましたし、アースフレンズはただバスケをするだけじゃなくて、スクールなど自分が教えられる場もあって、社会人として学べることも多いと思って『ここじゃん!』ていう気持ちでした。根拠はなかったですけど、1年くらいでプロチームになるのかなという気はしていました」
チームは人数も少なく、環境的には大学とは比べ物にならなかったが、選手として自分がやることの軸がぶれることはなかった。試合にも主力として出場し、スクール生らファンにも応援され、チームに必要とされる存在であることがただ嬉しかった。
その年、チームは神奈川県大会優勝、オールジャパン神奈川県予選優勝、全国クラブ選手権ベスト16の成績を残した。また、アースフレンズに加入してから4ヶ月後の8月、翌シーズンからのNBDL参入・プロチーム設立が決定し、プロバスケ選手としての道が拓けた。
「プロフェッショナル」に対する想い
そして、2014-2015シーズンからプロバスケ選手としての生活がスタート。
プロチームになる前からアースフレンズで活動していた高山には、他の選手以上にチームへの思い入れがある。
「チームはすごい勢いで成長してきたけれど、それはここまでの活動にコーチやスタッフが一生懸命に取り組んで来たから。代表の山野さんからは常々『他のバスケチームじゃなくて、日本中のエンターテイメントやサービスがライバル。ディズニーランドに勝っていかなきゃいけない。』って言われていて、そこに負けないつもりでスクールのコーチなどやってきたつもりです。ただ言われたことをやってるだけじゃ駄目だし、言われてないから分からないじゃ最高の仕事はできない。全力でやらなきゃ駄目でしょ。プロになってもその意識は失いたくないです。」
8月に行われたイベントでは、まだシーズン開幕の2ヶ月以上前であるにも関わらず、ファンが作成した高山の横断幕が掲げられていた。それは、これまでの高山のスクール生への熱心な指導や、ファンへの真摯な対応によってもたらさせれたものだろう。
生え抜き選手だからこそのチームへの思い入れ、そして試合に出られることの意味を知る高山が、その想いをコートの上で発揮するのはもうすぐだ。
2014-10-03
伊良部勝志「志ある者は事竟に成る」
親元を離れ、祖母のもとで幼少期を過ごした伊良部。温和な性格の伊良部がプロバスケの世界へ足を踏み入れることができたのは、常にバスケに対しての”志”を持ち続けていたからだった。
親元を離れ、宮古島へ
親が仕事の都合で家を空けることが多かったため、伊良部は物心ついたころから、親の住む沖縄本島から約300km離れた、宮古島の祖母のもとに預けられ、そこで幼少期を過ごした。伊良部が住んでいた地区は、宮古島の最北部に位置する、人口数百人ほどの小さな町だった。幼稚園と小学校が隣り合わせに建っており、幼稚園からは小学校の体育館の様子を見ることができた。伊良部は幼稚園の時からバスケをしている様子を見て、この時から「小学生になったらバスケをしよう」と思っていたという。
2つの小学校で全国大会出場
小学校は全校生徒合わせて60人ほどで、クラブ活動はバスケ(ミニバス)部しかなく、全校生徒の半分近くが所属していた。人数が少なく、1年生から6年生までが一緒に練習をしていたが、コーチのもとでみんな真剣に活動していた。伊良部が3年生の時、そんな小さなミニバスチームが沖縄県大会で優勝し、全国大会出場を果たした。「たまたまその時の6年生にすごく能力のある人が集まっていて、まさに”黄金世代”って感じだったんです。翌年はその先輩たちが卒業しちゃって、宮古島の大会でも勝てなかったです(笑)」小さな町のミニバスチームの快挙は、宮古島内だけでなく沖縄県内でも話題となった。
小学校5年生の夏休み、親の住む本島へ戻っていた伊良部は、バスケがしたくて近くの小学校のチームの練習に参加させてもらっていた。そのチームは背の高い能力のある選手が揃っていて、練習もしっかりしていた。伊良部はそのチームでバスケがしたいという思いと、親と一緒に暮らしたいという気持ちで、本島への転校を家族にお願いした。
すると翌年、今度は転校先のミニバスチームが全国大会に出場。伊良部は2つの小学校で全国大会出場を果たしたのだった。
万能型プレーヤーとしてチームを牽引
伊良部が卒業した小学校は、中学生になるとそれぞれの地域によって別々の中学に進学し、全国大会に主力として出場したメンバーは、伊良部とは別の中学校に進学していった。伊良部は中学1年時はほとんど試合に出ることはなく、2年生から控えとして試合に出るようになった。次第にチームの主力選手となっていった伊良部だったが、得点やリバウンドで圧倒的な数字をたたき出す訳ではなく、派手なプレーを披露するわけではなかった。だが、ドリブル・パス・シュートと何でもコンスタントにこなせる万能型フォワードとしてチームを牽引し、3年時には沖縄県大会で準優勝に貢献。沖縄県のJr.オールスターメンバーにも選ばれた。
高校は那覇市内の小禄高校に進学。当時は県内でベスト8くらいの実力だったが、「全国で自分たち以上に練習しているチームはないと思ってました」と伊良部自身が語るほど練習漬けの日々が続き、徐々に力をつけていった。同期の松島良豪選手(現兵庫ストークス)とともにチームを牽引し、2年生のウインターカップ予選に勝利し、初の全国大会出場を決める。ウインターカップでは、2回戦で現在のチームメイトである佐藤正成のいた山形南高校を破りベスト16に進出。3年時にはキャプテンとなり、インターハイ、ウインターカップに出場した。
力を発揮できなかった大学時代
高校を出てからもバスケを続けたい思いを持っていた伊良部だったが、親からは経済的な理由などから就職を勧められていた。そんな伊良部に、高校での活躍が評価され、大阪の近畿大学から特待生として声がかかった。伊良部は親を説得し、近畿大学へと進学することを決めた。
近畿大学では、良い仲間との出会いや頼もしい後輩の加入により、大学3年時にはインカレベスト4入りを果たす。しかし、伊良部は主戦力として活躍できる実力を備えていながら、監督が求めるチームスタイルに合わないと判断され、十分なプレータイムをもらえないまま4年間を過ごすこととなった。
このままでは終われない、終わりたくないと考えるようになった伊良部は、大学卒業後もプロとしてバスケをやりたいという思いを持ち始める。
トライアウトから東京Zの第1号選手に
大学バスケ引退後の1月、NBLの合同トライアウトに参加。1つ1つのプレーに真剣に臨み積極的にアピールする伊良部の姿が、アースフレンズ東京Zスタッフの目に留まった。
チームにはまだ1人も選手がいない状態だったが、チームが目指す目標や今後のビジョンを聞いて、このチームでプロバスケ選手としてスタートすることを決めた。そして2014年の春、佐藤正成・高山師門とともに、アースフレンズ東京Zの第1号選手となった。
大学で十分なプレータイムが得られていなかったこともあり、練習試合などではまだコーチの要求するバスケをコートで再現することに苦労している様子も見られるが、「試合に出られることがとにかく嬉しいです。毎日勉強させられることばかりで必死ですが、バスケってやっぱり楽しいなって実感する日々です」と、本人はいたって前向き。
そんな伊良部に今期の目標を聞くと、真剣なまなざしで答えが返って来た。
「いつもフロントスタッフやボランティアスタッフのみなさんが頑張ってくれて、本当に感謝しています。他にも、ファンの方や多くの人が支えてくれている。そんな仲間の頑張りに選手として応えられるのは、試合で勝つこと。みんなに優勝の喜びを味わってもらえるように頑張ります。」
伊良部は自分の名前の漢字でもある「志」という字を気に入っていて、その字の表す意味のような人でありたいという。
「志ある者は事竟に成る」とは、”しっかりとした志をもっている人は、どのような事でも必ずいつか成功する”という意味のことわざだ。
くったくのない笑顔に隠れた信念が、伊良部をより高みへと導いていく。
2014-09-24
中村大輔「ラッキーボーイ 導かれて東京へ」
自身のバスケ人生を「ツイてるとしかいいようがないですね」と語る中村大輔。
地元での国体開催、地元でのプロチーム誕生、そしてアースフレンズ東京Zの誕生がタイミング良く訪れ、
中村に進むべき道を示していった。
バスケ選手としての基礎を作ったラグビー
中村がバスケを始めたのは中学生のときから。
父親がクラブチームでバスケをしていてバスケには興味があったが、小学校にはミニバスチームは無く、地域のラグビー少年団に加入していた。
両親に勧められて始めてみたラグビーだったが、練習が本格化するにつれて「痛い」「怖い」「試合で勝てない」の3拍子で、ずっと辞めたいと思っていた。しかし、両親が「途中で投げ出すな」と辞めることを許してもらえず、嫌々ながら続けていた。6年生の時にはコーチが代わり、更に厳しい練習に。しかし、練習がキツくなって「痛い」「怖い」気持ちはさらに増したが、試合では徐々に勝てるようになっていくと、次第にラグビーの楽しさを感じられるようになってくる。ラグビーで培った体力や、身体接触を恐れない心の強さはその後の中村のバスケ人生の大事な基礎となった。
自己流練習でスキルを磨く
中学になると、ずっとやりたかったバスケ部に入部。
半年間はラグビーも続けていたが、両立することの難しさや、バスケ部の監督からもどちらかに絞るように言われ、ラグビーをやめてバスケ一本に絞る。バスケ部の活動は最上級生が主体で、下級生は上級生が引退するまでほとんど練習にも参加させてもらえなかった。負けず嫌いの中村は部活が終わったあと、近くの公園のバスケットゴールで一人、バスケをしていた。家にあったマイケル・ジョーダンのビデオを見て研究し、自己流で練習を続けた。この自主練習の日々で、中村はだんだんと力をつけていった。
2年生になり、上級生が引退して自分たちの代のチームになると、既にサイズも実力も同級生より抜け出していた中村はスタメンで試合に出るようになる。リバウンド、得点で活躍しチームの柱となり活躍。チームは県大会の1回戦で敗れたが、中村は神戸市の選抜チームに選ばれるなど、実力を認められるようになっていた。
地元国体のセレクションで最終メンバーに
いくつかの高校から誘いを受けたが、中村は家から近くてバスケ部もそれほど強くない公立高校に進学。バスケ部は毎週のように練習試合を行う実践重視のチームだった。上級生が2・3年生合わせて9人しかいないチームで、中村はスタメンで試合に出場。毎試合30?40点をあげ、1年生ながらチームのエースとなっていた。
中村が高校へ入学した年、兵庫県は2年後の国体に向けて強化を行っていた。例年、国体チームは全国大会に出場するチームの選手から選ばれるが、地元開催に向けての強化として県内から有望な1年生選手100人が集められてセレクションが行われた。中村は100人のメンバーに入ると、徐々に絞られていくメンバーに残り続け、他の強豪校の選手と共に最終メンバーに残り、本大会ではスタメンで試合に出場する。兵庫県選抜チームは、満原優樹(現日立サンロッカーズ東京)、長谷川技(現東芝ブレイブサンダース神奈川)らを擁する秋田県に敗れるものの、5位入賞を果たす。
この国体での練習は、中村にとって県内の高いレベルで練習をする機会となり、さらに実力を伸ばしていった。中村が2年生時には、高校のチームを兵庫県7位まで勝ち上がらせ、近畿大会への初出場を果たした。
教員を志望して九州の体育大学へ
高校を卒業後、将来体育の教員になりたいと考えていた中村は、体育学部のある九州の強豪、鹿屋体育大学への進学した。なぜ九州の大学へ行ったかというと、国体チームのコーチが鹿屋体大のバスケ部のコーチと先輩・後輩の関係にあり、中村を紹介してくれ、鹿屋体大のコーチが中村の事を気に入ってくれたからだった。
中村は1年から主力として試合に出場していたが、2年時に新しい監督がヘッドコーチに就任すると、チームのオフェンスの中核を任され、チームの主軸を担うようになる。チームも成績を伸ばしていき、3年時のインカレ(全国大会)では関東の強豪チームを破り、7位入賞を果たす。
予期せぬチャンスで地元プロチームの第1号選手に
大学のバスケ部引退後、選手としてのバスケ人生に区切りをつけたつもりでいた中村に、予想もしなかったニュースが入る。それは、地元の兵庫にプロバスケチームが誕生するというものだった。学校の教員になるつもりでいた中村だったが、友人の勧めや、このタイミングで地元にチームが誕生することに運命を感じ、トライアウトを受けることにした。結果、たった2人のトライアウト合格者の1人に選ばれ、地元のプロバスケチーム「兵庫ストークス」の第1号選手となった。そして、ルーキーにしてチームのキャプテンに任命された。
プロ選手としては分からないことばかりだったが、中村はとにかく目の前のことに全力で挑んだ。
キャプテンとしてチームをまとめるため、仲間と積極的にコミュニケーションを取っていった。英語は全く話せなかったが、外国人選手にも自分から話しかけ、気がつけば英語で会話ができるレベルにまで上達していた。プレーの面でも主力として活躍していた。
2部リーグのJBL2でスタートした兵庫ストークスも、3年目にはトップリーグNBLへ昇格。しかし、昇格とともに新しいヘッドコーチが就任すると、昨年までとほとんど変わらないメンバー編成にもかかわらず、中村の試合出場時間は激減した。1秒もコートに立つことのない試合も少なくなかった。
学生時代から常にチームの主戦力として試合に出てきた中村にとって、ほとんど試合に出られないシーズンはつらい日々だった。さらに、チームも公式戦25連敗を喫するなど、昇格初年度は苦しいシーズンとなった。
新たな挑戦の舞台へ
中村はプレータイムを求めた。そして、新たな刺激を求めていた。
そんな折、東京に新しいプロチームができるとことを知った。そのチームこそアースフレンズ東京Zだった。初めての交渉に向かう中村の心の中には、既にこのチームでプレーしようという決意があったという。「自分がこれから先、別のチームでのプレーを考え始めていた時に、新しいプロチームができるということを聞いて、”行くしかないっしょ”って気持ちでした。」と、当時の気持ちを語る。
実際に東京に来てチームを知った中村はチームやホームタウンの街について知っていく中で、自分の決意が間違いではなかったいうことを確信していった。
兵庫のファンからも温かく送り出され、中村はアースフレンズ東京Zの初年度メンバーに加わった。
「まずはプレータイムを勝ち取りたいです。ボリス・ディアウ(サンアントニオ・スパーズ)みたいに試合では大事なところで点が取れて、プレーの幅が広い選手を目指します。プロとして多くのファンに試合を観に来てもらいたいし、『大輔がいるから試合を観に来る』と言ってもらえるようになりたいです。」
運命的なタイミングに導かれたかのような人生を歩む中村だが、節目に訪れたチャンスを掴むことができたのは、負けず嫌いな気持ちで常に全力で上を目指していたから。
そして、新しい舞台で中村の瞳が輝きを増していく。
プロ4年目の挑戦が始まる。
2014-09-19
大野恭介「バスケができる喜びと 母との約束を胸に」
小学校時代からチームのエースとして活躍していた大野だったが、中学の時に母を病気で亡くしてしまう。母との最後の約束、そして大学時に2年間バスケができなかった経験が、大野のバスケへの思いを人一倍強いものにしていった。
両親の勧めでバスケを始める
東京都昭島市生まれ。幼稚園の時は、暇さえあればテレビゲームをやっているほど、ゲーム好きな子供だった。人一倍幅の大きいぽっちゃり体型だったが、幼稚園の運動会では大きな体をゆらしながらかけっこの先頭を走っていた。
大野がバスケを始めたのは、小学1年生の冬から。きっかけは、本人の意思・・・ではなく、当時マンガ『スラムダンク』に夢中になっていた両親の勧めから。ゲームと同じくらい運動は好きだった大野にとって、バスケの練習は楽しかった。そして、バスケにのめり込んでいくにつれて、体型はみるみるスリムに変わっていった。
チームの絶対的エースに
休日も親や弟らと一緒にバスケをして、楽しみながら上達していった大野は、次第に能力が開花していき、4年生の時から主力として活躍。6年生の時には、ボール運びからフィニッシュのシュートまでほとんど全て1人でこなす、完全な大野のワンマンチームと化していた。夏の大会ではいつも地区大会止まりだったチームを、東京都ベスト4にまで勝ち上がらせた。
早すぎる母との別れ
中学でも大野は1年生からスタメンとして試合に出場し、東京都のJr.オールスター(中学選抜チーム)にも1年生ながら選ばれ、主力として活躍をみせた。2年になると、同じくJr.オールスターに選ばれていた同級生と2人で、毎試合チームの約8割の得点をあげるようになり、都内でも注目されるチームになっていった。
そんな2年の秋、大野の母親に病気が見つかった。末期の癌で、すでに手の施しようのない状況だった。母を元気づけるため、大野はさらにバスケに没頭した。2年連続でJr.オールスターにも選ばれた。大野の活躍に応えるように、母は医師に宣告された余命を超えて生き続けた。
3年の夏の地区大会決勝戦。大野の母が見た最後の試合となった。だが、普段通りであれば当然のように勝てる相手に苦戦し、試合には何とか勝ったものの、大野もチームも全く良い試合ができなかった。母に良い試合を見せられなかった大野は、この試合を悔やんだ。
試合の数日後、大野は病院を見舞った。母の死期が迫っていた。今際の際に、母は大野に伝えた。
「私がいなくなっても、バスケをがんばりなさい」
その少しあと、大野の母は静かに息を引き取った。
母の言葉を胸に試合へ
チームは都大会を1週間前に控えていたが、大野は母の葬儀などで練習には全く参加していなかった。心痛を察した監督からは、「試合にも来なくても大丈夫だから」と言われていた。
そして都大会初日。チームの中に大野はいた。母が残してくれた言葉を胸に、大野はコートに帰ってきたのだった。ベンチには母の遺影が置かれていた。大会前にまったく練習に出れていなかった大野のコンディションは、好調にはほど遠かったが、毎試合30点前後のスコアをたたき出し、圧倒的な存在感を示しながら勝ち進んでいった。初めて進出した決勝では第3ピリオドを終えて8点のビハインドを負っていたが、大野の連続3ポイントで一気に点差を縮めると、その勢いのまま逆転しタイムアップ。初の東京都大会優勝、そして開催地枠として全国大会出場を決めた。
初めて出場した全国大会ではベスト8進出を達成。大野は得点アベレージで大会4位の成績を残した。
仲間との出会い
引退後、都内のいくつかの高校から声がかかった。その中で大野が選んだのは、最も熱心に誘いの声をかけてくれた東海大菅生高校だった。同級生には、現在のチームメイトである佐々木隼がいた。そして、2年時には後輩に高山師門が入学してきた。
東海大菅生高校のプレースタイルは、とにかく走って得点を取りまくる、ハイスコアゲームが主体のスタイル。大野は1年の冬からスタメンで試合に出場していた。大野は中学までのようにチームのエースではなかったが、能力の高い仲間とともに成長を遂げ。3年時には初のインターハイ出場権を獲得。インターハイでは2回戦で敗れたものの、全国初勝利を掴んだ。この年、ウインターカップにも出場すると、全国ベスト8まで勝ち上がった。
バスケができなくなった日
高校卒業後、大学バスケ界の名門、日本体育大学(以下 日体大)へ進学。しかし大野が入学した年、日体大は創部以来初めて関東2部リーグ降格の憂き目に遭う。大野自身もフィジカル(体の当たり)の違いや、チームが求めるプレーに悩み、持ち味を発揮できずにいた。
大野が3年生になる年、日体大バスケットボール部のOBでトップリーグの三菱電機でヘッドコーチを務めていた藤田将弘氏が指揮を取ることが決定。チームも再起にかけて気持ちが高まっていた。大野も「ここから」という気持ちでいた。
ところが、新年度が始まったばかりの4月下旬、学校へ登校中だった大野を、突然胸の苦しみが襲った。何とかチームメイトに連絡を取り、救急車で病院へ搬送。幸い病院で苦しみは治まり、命に別状はなかった。しかし、動悸の原因は分からず、再発の可能性があるという理由で、バスケをすることにはドクターストップがかけられた。
その後、何度も検査や診察を受け薬も飲んだが、状況が変わることは無かった。いつになったらプレーできるのか分からない、そもそもプレーできるようになるのかも分からない。そんな状況の中で、大野のバスケへの思いは打ちひしがれていた。練習には来るように言われていたが「バスケができないのに、見学して何の意味があるんだ」という気持ちだった。
バスケへの想いをコーチとして昇華
そんな3年生の1年が終わるある日、藤田監督から呼ばれ「コーチになってもらいたい」と依頼された。
将来指導者を目指していたわけではなかったが、母との約束を守るために腐っていた自分を変えなければならないという思いから、引き受けることにした。そして、このことが大野自身も想像できないほどに、気持ちを吹っ切らせるきっかけとなった。
バスケができない悶々とした気持ちをコーチとしての仕事に昇華させ、自分にできることを精一杯やろうとした。
そんな大野の熱意がチームにも伝わったのか、日体大は14勝4敗で関東2部リーグ優勝。入れ替え戦でも勝利し、3年ぶりに1部昇格を果たした。
再びバスケができる喜びを感じて
大学4年の終わりごろ、大野に声をかけたのがアースフレンズ代表の山野勝行だった。大野が大学時代、SNSに投稿していたバスケへの想いを山野が読んで感動し、「プレーできる場所がないならうちに来ないか」と声をかけたのだった。
「アマチュア日本一」を目指していたとはいえ、クラブチーム”アースフレンズ バリバリチーム”は当時県大会2回戦止まりのチームだった。それでも、大野は「再びプレーができるなら」と、チームに加入することを決めた。
そして、大学卒業後はアースフレンズでスクールのコーチをしながら、バリバリチームの選手としてプレーをする日々がスタートした。メンバーの少ない社会人チームで、平日夜の練習には1?2人しか来ないことも少なくなかった。それでも、とにかくバスケができるということが嬉しかった。試合では中学時代のように自由にプレーした。翌年には高校時代の後輩である高山らも加入し、チームも全国クラブ選手権ベスト16まで勝ち進んだ。
開けたプロチームへの道
チームの躍進と同時に嬉しいニュースが入った。アースフレンズの2014-2015シーズンからのNBDL参入が決まったのだ。
全国クラブ選手権が終わった数日後、プロ選手としてプレーしたい意向をチームに伝えた。そして大野は今、アースフレンズ東京Zのユニフォームを勝ち取り、チームの初代キャプテンにも任命された。
「選手の誰もが高いモチベーションを持って、手を抜いていない環境でやれていることに、感謝しています。
高校のチームメイトとまたプレーできていることも嬉しいですね。素晴らしい機会をもらったアースフレンズに、ファンに恩返しがしたいというか、還元していくことができればいいと思っています。
色々ありましたけど、一つのことをずっと続けることが大事だということを感じています。」
「バスケができる」ことの幸せを誰よりも噛み締めながら、大野はプロの舞台に立つ。
2014-09-16