MENU

EARTHFRIENDS
TOKYO Z

MENU

COLUMN

HOME>COLUMN>BIOGRAPHY>渡邉拓馬「若いチームを支える プロ13年の経験」

渡邉拓馬「若いチームを支える プロ13年の経験」

 

column10.jpg

幼少期よりバスケ漬けの生活を送って来た渡邉。
自身を取り囲む環境、類いまれな身体能力、そして並外れた『上手くなること』への想いと行動で、世代を代表する選手へと昇りつめた学生時代。さらにトップリーグでの多くの経験を経た渡邉が、今目指すものとは。


バスケ一家の英才教育

両親は共に実業団でプレーしていたバスケットボール選手。引退後は両親ともミニバスのコーチをしており、2人の姉もバスケをやっていた。そんなバスケ一家の長男として渡邉は生まれた。
幼稚園の頃から親が指導している体育館に連れて行かれ、3歳の頃からボールを触っていた。その頃はまだ、バスケをしているというよりもボールにもて遊ばれていたようなものだったが。

小学2年生より、小学校のミニバスチームに入団。しかし、渡邉は楽しんでバスケをしていたわけではなかった。「渡邉家として自然な流れという感じでミニバスチームに入りました。『バスケがしたい!』という気持ちは正直なかったです。家でもバスケのことばっかりで、いつものように叱られてました。家のテレビで自分の試合の映像を見ながら、両親と2人の姉からの集中砲火(笑)。父親から『お前はモノにならない』って言われたのは、今でも心に残っています。この言葉は、後々僕の心の支えになっていったんですけど。」

当時は”怒られないために”練習していたという渡邉。朝から近くの公園でシューティングをして、学校が終わったらチームの練習。家でもバスケの話と、これ以上ないほどバスケ漬けだった。ミニバスチームはもともと強かったこともあり、6年時には全国大会にも出場。渡邉はリバウンドからボール運び、そして得点まで何でも1人でこなすオールラウンダーだった。「マイケル・ジョーダンが好きだったんで、ジョーダンのマネをしてシュートしたりしていました。」

column10-1.jpg


変化するバスケへの想い

中学校に進学すると、1年生の時から試合に出るようになる。小学6年生で155cmだった身長は、中学に入ると急激に伸びた。そして、それに比例するように、渡邉のバスケスキルは急成長していった。「身長が伸びていって、やりたいプレーがどんどんできるようになっていく感覚でした。」プレーの上達に伴って、両親から叱られることも少なくなっていき、バスケをするのが楽しくなっていった。そしてこの頃から、『どうしたらもっと上手くなれるか』を追い求めていくようになる。練習が終わっても自主練習。途中で体育館の電気が消されても、残ったステージの明かりで体育館の鍵を閉められるまで練習を続けた。


姉の存在

渡邉は、そのプレーで県内でその存在を知られていき、福島県のJr.オールスター(中学選抜)にも選ばれ、チームも3年時には全国大会に出場した。だが、渡邉の存在が全国に知られていったのは、自身のプレーよりも姉の存在によるものが大きかった。渡邉の2番目の姉・貴子が、愛知県の名古屋短大付属高校(現在の桜花学園高校)で全国優勝を果たし、全日本ジュニアにも選ばれるなど国内トップ選手として活躍していた。そして渡邉は『渡邉貴子の弟』として知られるようになったのである。だが、渡邉はそれを良く思ってはいなかった。『弟』ではなく『渡邉拓馬』として扱われたい。その想いが、さらに”上手くなりたい”という気持ちを強くした。


バスケへの姿勢がチームを変える

渡邉には県内だけでなく、全国の強豪高校からも誘いがあった。そんな中で、高校2年生の時に、地元で開催される国体に福島県代表として出場するため、地元の福島工業高校を選んだ。
渡邉は誰よりも一心不乱に練習に取り組んだ。バスケ部の使っている体育館の利用時間が終わると、毎回空いているサブ体育館に行き、個人練習をしていた。壁を使ってパスを受けたり、試合のシチュエーションをイメージしながら、黙々と練習に明け暮れた。始めは渡邉の他に自主練習に来る者はいなかったが、次第に同年代の選手たちが渡邉に感化されて自主練習に来るようになり、渡邉が上級生になってからは、後輩たちもみんな練習に来るようになっていった。

column10-2.jpg


『渡邉拓馬』として全国屈指のプレーヤーに

言葉で周りを鼓舞するタイプではなかったが、バスケへのひたむきな姿勢でチームを引っ張っていった渡邉。コートの上でも圧倒的な得点力に加え、軽々とダンクシュートを決める身体能力の高さでチームを牽引。2年時の福島国体では準優勝、3年時にはウインターカップ準優勝の成績を残し、大会得点王となった。この頃には、『弟』ではなく『渡邉拓馬」として全国にその名を轟かせた。

また、姉と同じく全日本ジュニアのメンバーに選出。アジアジュニア大会に出場し、将来のNBA選手を擁する中国などのチームを相手に得点源として活躍。日本はアジア3位の成績を残し、個人としても得点王・大会ベスト5を獲得した。国内だけでなく、アジアを相手にも自分のプレーが通用するという自身を得た渡邉は、この頃からプロ選手になりたいという気持ちを持ち始める。

column10-3.jpg


大学バスケ界を席巻し、金字塔を打ち立てる

世代を代表する選手となった渡邉。当然、多くの大学から誘いの声がかかった。その中で次の舞台として選んだのは、拓殖大学だった。拓殖大の森下監督とは中学時代から指導してもらう機会があり、当時から「君は全日本の選手になれる」と期待をかけてもらっていた。

大学では1年時からスタートとして起用され、チームの中心選手として活躍。そして関東大学1部リーグで、大学1年〜4年までの4年連続で得点王を獲得するという、前人未到の記録を打ち立てる。大学の全国大会であるインカレでも3年時に準優勝を果たし、得点王、大会ベスト5を獲得。


感じた世界との差

また、ユニバーシアードの日本代表として3度大会に出場。この大会で、渡邉は世界のレベルの高さを知った。「ヨーロッパのチームが凄かったです。アメリカ人みたいな身体能力はないけど、みんなデカくて上手い。チームとしての戦い方も、向こうが何枚も上手でした。その時、日本が目指していくべきスタイルはこういうバスケなんだと感じました。その想いは今も変わっていないですね。」この経験が、よりプロ選手として、バスケ中心の生活をしたいという気持ちを強くした。

column10-4.jpg


最高のスタートで悲願の日本一

大学を卒業した渡邉は、トップリーグのトヨタ自動車アルバルクに入団。念願のプロ生活をスタートさせた。
渡邉の入団と同じタイミングでチームのコーチに就任したのは、現アースフレンズ東京Zヘッドコーチの小野秀二。渡邉はスーパールーキーとしてセンセーショナルなデビューを飾る。優勝候補のチームにあって主力選手の1人として活躍し、01-02シーズンのリーグ初優勝に貢献。自身も新人王を獲得。「素晴らしいチーム・仲間とのプレーで、何をやってもうまくいく感じでした。今まで小学校からずっと全国大会には出ていましたが、ようやく日本一を成し遂げることができて、すごく達成感を感じました。」


『心』の力を知る

日本代表にも選ばれ、早くも日本のトップスター選手の仲間入りを果たした渡邉。しかし、プロ3年目頃から、これまでの昇り調子が一転、自分のプレーができなくなってしまう。「日本代表の活動などもあって、精神的にも肉体的にも疲れてしまっていました。プロ1年目でいきなり優勝できたので、それ以降モチベーションを保つのが難しくなっていたというのもあったと思います。」精神面がプレーに影響し、それがさらなる緊張感や悩みとなって自分を追いつめるという悪循環に陥っていた。

そんな渡邉を救ったのは、当時日本代表監督をしていたジェリコ・パブリセヴィッチ氏だった。「ジェリコが自分に期待してくれているのをすごく感じて、それに応えたいという気持ちが自分を動かすエネルギーになるのを感じました。それに、トレーニングもすごくハードで、自分がやってきたことがまだまだ甘かったんだと思い知らされましたね。」ヨーロッパ式の練習とジェリコ監督の情熱で、渡邉は再び輝きを取り戻す。トヨタは復調した渡邉の活躍で、05-06・06-07シーズンにはリーグ連覇を達成。渡邉はベスト5にも選出された。


アスリートとしての岐路、そして移籍

プロ選手として10年が経った頃、渡邉は自身のプレーの衰えを感じ始める。「簡単に決められたはずのシュートが決められなくなったり、気持ちの面では充実しているのに思うようなプレーができなくなっているのを感じるようになりました。」という渡邉は、試合でもスタメンではなく、控え選手として試合に出るようになっていく。

そして2012年、渡邉は日立サンロッカーズへの移籍を決意する。「より自分を必要としてくれるチームで、自分の価値を確かめたいという想いで移籍を決めました。トヨタのコーチ達も僕の気持ちを理解してくれて、温かく送り出してくれました。日立はまだ発展途上のチームでしたが、小野さんもいて誘ってくれた。良い選手も集まっていて勝てる要素がある。そして何より、自分の経験やプレーが生かせる気がして、このチームへ行こうと決めました。」日立に移籍した渡邉は、ベテランとしてチームを支える役に回り、チームの上位進出を支えた。

しかし、翌シーズンには小野ヘッドコーチが退任。新コーチのもとで再建を目指した日立は、チームの強みを発揮できないまま苦しい1年を過ごした。「2年目はチームの仲間同士の信頼関係がしっかりと結べなくて、それがコート上で出てしまっていました。自分が何とかできればと思っていたのですが、チームを大きく変えることはできなかったのは悔しかったですね。」

column10-5.jpg


14年目の新たな挑戦

日立で2シーズン目が終わった今年、渡邉は新たなステージへの挑戦を決めた。
「トヨタ、日立とプレーしてきて、企業チームとしてサポートを受けて、良い環境でやってこれました。ただ、本当に日本のバスケが強くなっていくためには、プロチームが勝てるようになっていかないと駄目だという想いも持っていました。

そんな折、新しいプロチームが東京に誕生するということを知りました。これからスタートするチームとうところに、とても魅力を感じました。また、代表の山野さんと話して、スクールの活動やこれまでの取り組み、チームの目指す方向性に共感し、自分が『バスケ人』としてさらに広がっていけるのではないかと考え、このチームを次のステップとして選びました。そして「ここでプレーをする」と決めた後、小野さんがヘッドコーチになることを知りました。小野さんとはホントに縁がありますね(笑)このことで、自分がこのチームを選んだことは間違いじゃなかったって確信が持てました。

このチームは若い選手が多いチーム。自分のこれまでの経験上、若い選手が思いっきりプレーしている時は、チームも勢いに乗っていけるので、若い選手たちがチームをリードしていけるようにサポートしていきたいです。スタメンで試合に出る選手の気持ちも、控えで出る選手の気持ちも両方経験してきたので、それぞれに助言してあげることもできます。チームが道を外れないように軌道修正してあげながら、チームを支えるのが自分の役割だと思っています。」

長年のバスケキャリアの中で多くの経験を経て来た渡邉が、若さ溢れるチームのエンジンに火をつける。

column10-6.jpg