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翁長明弘「夢は逃げない」

 

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今シーズン、通訳も担いながら一選手としてもコートに立つ翁長。これまでの経験を振り返ると、バスケットに対する熱い思い、常に高い目標を持つ飽くなきチャレンジ魂を感じた。


沖縄の大自然との生活

「はいさい!」翁長から発信されるメッセージは、常に沖縄県出身の彼ならではの言葉で始まる。
父親は、宮古島のさらに離島となる、多良間島の出身。大自然のなかで育った父親は、「晩御飯は魚にしよう。」となると、銛を持って海に行き、魚を獲ってくる生活をしていたという逸話に、インタビューをしていて驚いてしまった。

夏はアウトドア、冬はスキーと1年通してアクティブに動く家庭に生まれ、すくすく明るく育っていた翁長がバスケットを始めたのは、小学校5年生からとちょっと遅めのスタート。

小学校5年間を千葉県で過ごし、当時県内で1番強かったサッカー部へ入部したかったが、年に2回入院するほど持病の喘息がひどく、断念。体を動かすことが好きで、何でも良いからスポーツをしたいと考えていた時、校庭にあるバスケットゴールにシュートを打ってみた。そのシュートは見事に決まり、「リングにボールが入った時の感覚が凄く気持ちが良くて。それがバスケを始めたきっかけです。」と振り返る。

6年生の時に沖縄へ戻り、卒業までバスケ部に入部。そこまで強いチームではなかったが、コーチが熱心に指導をしてくれ、父親にはNBAのビデオを沢山見せてもらい、バスケットの魅力にどんどんと惹かれていく事となった。

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怪我を乗り越えて

中学校の同級生には現千葉ジェッツの上江田勇樹がおり、エースとして活躍していた。自主練の時にも共にシューティングをする等切磋琢磨をし、2年生の時に沖縄県大会で優勝。九州大会へ進むが、上江田が開始10秒で怪我を負ってしまい、1回戦敗退。
3年生になり、これまでチームを率いていた監督が転勤をしてしまうと、県内有数の強豪校として君臨していたチームにまとまりがなくなり、中体連での予選で無名校に敗戦。そのまま卒業を迎える事となってしまった。

派手な成績を残してはいない翁長に声をかける高校はなかったが、“バスケットが大好きだ”という気持ちを人一倍もち、ずっとバスケを続けたいという思いから、県内の高校へ進学後もバスケ部へ入部。
しかし、翁長自身にとって最大の壁が立ちはだかることに。2年生の時に「もうバスケは諦めた方が良い。」とドクターストップがかかるほどの大きな怪我をしてしまったのだ。自分達の代になり、『ここからだ!』という時期だっただけにがっくりしてしまったが、諦めることなく、ご両親のサポートもあり、懸命にリハビリに励んだ。「福岡まで病院を探しに行ったり、親には迷惑をかけたと思います。本当に感謝の気持ちしかなかったですね。」

3年生の夏のインターハイ予選の頃にようやく復帰。予選が終わると、ほとんどの3年生は部活を引退し大学受験を迎えていたが、完全燃焼しきれていない翁長は、ウインターカップ予選まで試合に出続けていた。「誰よりも練習をして自信をつけてきたけど、怪我をしてしまってやりきれない気持ちしか残っていなかったので。最後までやりきりたかったんですよね。」

そんな思うようにいかない時間を過ごす裏で、もう1つの目標であった『アメリカへ行ってバスケットをする』ことに向けて準備を進めていた。「中学生の頃から漠然とアメリカに行ってみたいって考えていて。言葉も、高校へ行けば英語の授業もあるし、話せるようになるだろうって単純に考えていました(笑)。」
3年生の選択授業でも英語を選び、1分でも長く英語と触れ合うようにしていた。しかし、高校3年間で成績は常に5段階評価で2。決して優秀とは言えない成績ではあった。

周りからの沢山の反対派もあったが、情熱の一心だけで留学するための試験を受験。バスケットへの熱い思いも試験官に通じてか!?見事に合格をし、アメリカへの道が切り開けたのだ。

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アメリカへの挑戦

高校を卒業と共に渡米。1度も帰国することなく、4年間アメリカで過ごした。
1番の壁は、やはり語学力。日常会話もほぼできない状態だったため、授業についていくのも大変だった。授業の最後に、次の授業ではどこまで進むかを先生に聞き、前日までに予習を欠かさず行っていた。「言葉がわからなければ授業にならないから、辞書と格闘しながら勉強していました。人生で1番勉強した時ですね(笑)。」

目標であった世界に挑戦する毎日は、とても充実して内容の濃い時間となっていく・・・はずだった。

渡米1年目にして試練が訪れることとなる。腰に重度の怪我を負ってしまい、手術を受けることとなったのだ。遠い異国の地。不安はなかったのか聞くと、「確かに不安ではありました。ただ、向こうの先生はとてもポジティブで、日本なら『もうバスケは諦めなさい』と言われることを、『絶対に俺が治すから、君はバスケットをやることだけ考えていなさい』って言ってくれたんです。なので、前だけみて手術を受けることができました。」
手術は無事に成功し、再びトレーニングを開始できるまでに回復。大学もカリフォルニア州サンタアナ・カレッジへ転籍をし、新しい生活が始まった。

アメリカの大学では、チームに入るためにも入団テストがある。誰でもバスケットができるわけではない環境。学校にある設備だけでなく、自らジムにも通いながら練習に励み、その甲斐あって、20名のトライアウトの内、2名だけが合格できるレッドシャツ(練習生)として入部できることとなった。再び手術を受けた時期もあったが、3年目にはロスター入りも果たし試合にも出場。
「楽しいの一言でした。日本とは高さも違うし、ワクワクしかなかったですね。スピードだけは少しは通用するかなと思ったけど、フィジカルのスキルは全然違う。世界の壁は高かったです(笑)。」

アメリカへ行ってみて、1番経験になったことは何だったかと質問をすると、「1番大きかったのは“日本の常識は世界の常識ではない”ということに気づいたことですね。行ってみないとわからないことが沢山あったし、カルチャーショックじゃないけど、考え方も変わりました。自分の夢や目標に向かって本気で行動すること。自分で動いていかないと何も掴めない。この4年間があったから、プロ選手にもなれたと思っています。」

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2つのコートに立ってみて

卒業と共に帰国。しばらくは自主トレに励み、当時JBL2に在籍していた兵庫ストークス(現西宮ストークス)のトライアウトを受け、練習生として合格。開幕直前に正式に契約締結し、プロ選手としての生活がスタートすることとなった。「目標だったプロ選手になれたことに、ただ嬉しかったですね。」当時のキャプテンを、昨シーズンまで東京Zでプレーをしていた中村大輔が務める等、ちょっとした縁を感じた。

東京Zのなかでは、橘選手に続き、NBL・bjリーグ両方を経験した1人。「それぞれのリーグでメリット・デメリット、両方あると思います。外国籍の選手の数も違うので、戦い方も変わってきますからね。」

これまでの経歴で1番印象に残っていることを聞くと、「つくばロボッツに入って、日本のトップリーグNBLでプレーできたことですかね。そのコートに立ったときは、特別な感触がありました。」今でも中心選手として活躍している中川和之選手からは、ポイントガードとしての心得を教えてもらった。「中川さんはすごい後輩思いで、オフの日でも一緒に練習をしてくれて、色んなことを教えてもらいました。つくばでの1年間は、選手として良い経験ができたと思っています。地元メディアにも沢山扱ってもらったのが福島ファイヤーボンズでした。ファンも熱い人が多くて試合にも沢山の方が会場まで足を運んでくれて。今でも東京まで応援に来てくれる方もいるので、感謝の気持ちしかないですね。」

沢山の経験を積み、プロ5年目として選んだ地がアースフレンズ東京Z。
シーズンも後半戦に入り、チームの印象を聞いてみると「皆良い奴なのが、東京Zの最大の魅力・強みだと思います。お互いを思いながらポジティブに切磋琢磨をしていて、どんなに練習がきくつても、このメンバーでバスケができていることが楽しいです。」

チームの中では通訳としての役割も担う翁長。プレーヤー1本で勝負をしたい気持ちもあるが、今は、どういう条件であっても、自分に求められている役割をしっかり遂行できるよう練習に励んでいる。「ディフェンスのチームなので、もっと足を動かして、チャンスをもらった時にはアピールしていかないとと思っています。応援してくれる人も沢山いるので、期待にも応えたいです。あとは、若くて上手い選手が多いので、自分の経験を伝えて還元していきたいですね。またアメリカへは・・・挑戦したい気持ちは常に持っています!」

シーズンも終盤に入りコートでの活躍は決して多いとは言えないが、チームスローガン『世界に挑むZ!』を既に経験をしている翁長の言葉は、チームに活力と原動力を与えていることは間違いない。自分自身の夢のためにも、彼の挑戦の道は続く。

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